◇首相私邸から脱出
 首相私邸に近づいた時、官邸を襲撃した佐々木一隊がトラック二台に分乗して、私達の前方を走っているではないか。

 「先生っ、さっきの連中がいます」所貿君が声を殺して合図した。

 「右へ」と指示、私達は別の近道を通り全速力で襲撃隊よりひと足先に私邸に看いた。あたりはまだ薄暗かったが官邸を出てから小一時間ほど経っていたと思う。 

車から飛びおり土足のまま玄関から奥へと走った。総理が上衣のボタンをかけながら小走りに出てこられるのに出会った。うしろに夫人、長男の一さん(当時首相秘書宮)が続く。

 「総理こちらです」首相の腕を抱えるようにして玄関を出て門の方へ走った。

 私邸の門は電事が走る大通りに対し斜めに構えた造りであった。しかも首相専用車が電車通りでなく、そこから私邸の門前を駒込方向に対し左折した小路に入って駐車していたことが幸いした。そのため、私達が乗りつけたオープンカーのすぐ数十メートルほどの後方には佐々木大尉一隊の車が接近していたにもかかわらず、総理と私どもが正門を出てすぐ左折し、その小路に止めてあった首相専用車に乗り込む姿が襲撃隊の視野に入らなかったのである。

 首相専用車は小路を右へ右へと曲がり、大通りに出て東大正門前の首相親戚の邸へと脱出した。この時のきわどいすれ違いの状況を鈴木一さんは次のように記している。(注4)


(注4)鈴木一「総理私邸の炎上」オール読物、文芸春秋社刊、昭和四十年十月号(104ページ)


『…同車したものは、父総理と母と秘書宮の私に、同じく秘書宮であった従兄の武君(首相実弟鈴木孝夫陸軍大将の子息=北原注)と唐沢運転手の隣りには警衛の警視庁の坪井さん、それに急を聞いて駈けつけた北原さんの七名であった。総理の自動車は電車通りから小路に入ったまま駐車してあったのであるが、いざ乗ってみると中々エンジンがかからない。戦争末期でよいガソリンがないための当然の現象であるが、そこ迄襲撃部隊が来ていると思うと、気が気でない。警備の警察官十人程で単の後押しをやってくれたが、後刻色々計算してみると、実はこの頃、兵隊と学生を乗せた佐々木大尉の率いるトラック二台は、既に電車通りを走ってきていたらしい。

 一隊は、小さい総理私邸の前を通り越して、坂上の千葉三郎氏の大さな邸宅を目指して進み、ここで尋ねて逆もどりしたのであった。その頃総理の自動車は、同じ電車通りを反対方向に、一目散に本郷西片町の叔母の家にと走っていたのである。まことに運命のすれ違いというか、危機一髪の瞬間であった…』

 親戚の邸に着いてから鈴木一さんが丸山町の私邸に電話を入れた。ところが電話口に襲撃隊の兵士が出て「鈴木はどこにいるか」と怒鳴るので一言もしゃべらず電話を切っている。そのあと、彼等は私邸に火を放った。一種の焙り出し作戦をとったのであろうが、すでに首相は脱出したあとだった。

 そうした情勢から、ここ西片町も危険だと判断、こんどは芝にある朝香宮邸の横の邸に鈴木孝夫大将が寄宮しておられたのでそこへ 一行は移動した。ところが、この邸の玄関に飛び込んだ私の目の前に姿を見せたのが、なんと小田村寅次郎君ではないか。(注5)


(注5)小田村憲次郎君は現在「国民同胞」を主宰。吉田松陰の姉の嫁ぎ先の出である。河合栄次郎を東大から追い出したが、自らも田所君と共に東条英機に東大を追われていた。


これには驚いた。機先を制して声をかけた。

 「君は戦争終結に反対か」

 「いや、戦争終結は己むをえないと思う」

 そうしたやりとりのあと無事に一行は邸に入り、午前十一時過ぎまでここにいた。その後内閣と連絡がつき、襲撃隊及び近衛師団の叛乱が鎮まったとの報せを聞き、首相官邸に総理ともども入ったのは確か十一時三十分頃であった。首相私邸から脱出して以来およそ六時間半というもの、全く内閣と連絡がとれなかったのである。

 ところで、石井・所賀の両君は、首相私邸で私がオープンカーを降り首相一行と脱出した時、そのあとを追ったようであるが燃料が切れ、己むなく駒込駅前で車を捨て直ちに吉祥寺に戻り四元義降さんに脱出成功を報告している。その後当臼の炎天下、松岡・石井の二人は私達を探して都内の心当りを終日尋ね廻ったようだが、恐らく、首相脱出後の経路は誰もが予想できなかったところであろう。


脱出成功の安堵感も手伝ってか、私は官邸に着いてからは大広間でぐっすり眠り込んでしまった。そのため、正午の玉言放送など全然知らずに過ごしたのである。死を覚悟していた私であったが、めまぐるしい動きのあとに訪れたものは意外にも深い眠りであった。

十五日以降の模様をかいつまんでいえは次のとおりである。

 もともと鈴木首相は首相就任後も官邸でなく私邸に寝泊まりしておられたが、私邸が焼かれたこともあって、官邸ではなく朝香宮邸の隣りの邸で二〜三日過ごされた。そのあと、目黒の中根町の近くに転居された。

 一方内閣の動きであるが、八月十五日にはすでに鈴木首相は辞表を提出、内閣は総辞職し、一日おいた十七日には東久邇宮内閣が成立、全軍に戦争停止命令が布告される慌しさであった。

 鈴木首相自決のおそれありということで、それを監視する意味もあって、私もその後二〜三日間身辺近く寝起きしていた。しかし、その心配がなくなったのを見届けて小平の大鵬宰へ引き揚げたのは二十日過ぎではなかったかと思う。

 緒方先生が東久邇宮内閣の国務大臣兼内閣嘱託として官邸に詰めることになったが、本題とは直接かかわりがないので割愛させて頂く。


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