◇ お わ り に

 以上想い出すままに記したものの、もともと八月十五日前後のことについて発表する意志はなかった。しかし、今回は敬天舎同人わけても若い同人諸君が色々聞くので、当時から三十七年も経過していることもあり、記憶がなくならないうらに書き残しておくことも私の務めではないかと考え直した。

 当時「日本のバドリオ鈴木を倒せ」とは陸軍を中心とする大勢であった。神州不滅を信じ、一億玉砕を国家指導原理として戦ってきた国民感情からすれば、無理もないところでもあった。

バドリオとは、国王と共謀しムッソリーニを首相の地位から追放し監禁すると共に、自ら首相としてファンスト党を解散し、ひそかに連合軍と和平交渉を始め、イタリアを無条件降伏に導いた男である。

 私が八月はじめ、四人の学生を率いて首相官邸に入る時、首相と共に陸軍に必殺されるであろうことを覚悟し、人知れず子供宛に遺書を認めたのも以上の理由からであった。それ故に、あの時私と行動を共にすることを切望された畏友、幡掛正浩兄との別れに際し、死ぬのは一人、一人にしよう。幡さんはつらいだろうが、今しばらく生き残って日本の将来や私事ながら家族のことを頼む、とも言ったのである。(注6)


(注6)幡掛兄との交遊は遠く京大在学中にまで遡る。詳細は幡掛正浩著「花相似たるもの」兄弟文庫、昭和四十二年刊「序」”緒方竹虎先生の逸話“私の大岸頼好””かなしきいのち””大魂・石井一作先生”の各章に記されている。


とはいえ、私自身が「戦争終結己むなし」と決断を自分に対して下していなければ、恐らく敢えて鈴木首相救出に生命を賭けることはしなかったであろうり そして、その決断は払自身の内部ではそれなりの必然性をもっていた。それは、京都大学を卒え、国民高等学校、満蒙拓殖幹部訓練所、建国大学、海南島での体験を含め大陸各地での見聞を通して、軍部主導の大陸進出、東亜経綸の動きにはとてもひとくらでは言いきれない不信感を抱いていたからである。

 それだけに、なにかを契機に今までのやり方を改め、日本は新しく出直すべきだとの心境にあった。従って、和平終戦は堪え難い屈辱とはいえ、これを日本民族の再出発のための「禊」(みそぎ)と受けとめるべきではないかと覚悟できた。だから和平終戦の決断は決して唐突で飛躍した結論ではなかったのである。

 単なる軍事的な敗北としてでなく、「禊」として戦争終結を受けとめることは、逆に積極的に民族の再生を願う道につながるのではないか、三十七年を経た今日でも私はこれだけのことしか言えない。

 これから先のことは、同人諸賢はじめ国民一人々々がそれぞれの考えや立場から八月十五日を受けとめ、今後の日本の歴史の流れを正しいと信じる方向へもっていくことではないだろうか。


 なお、この稿をはじめるにあたり、四元義経先輩はじめ幡掛正浩、松岡健一、石井醇一郎の諸兄にひとかたならぬご協力を頂いた。また私の口述をまとめるに際し、昨年の敬天舎同人誌創刊の辞もそうであったが、今回もまた、三浦正昭君のお世話になった。併せて茲にあらためて深く感謝の意を表す次第である。
(昭和四十七年四月)


参考文献として次の二点を加えたい。
鈴木 一編「鈴木貫太郎自伝」時事通信社、昭和四十三年刊(275ページ)
五味川純平著「戦争と人間7」三一書房、昭和四十一年刊(295〜7ページ)


北原勝雄氏は昭和63年1月8日。膵臓癌のため逝去されました。
ご冥福をお祈りいたします。
敬天舎同人誌第二号より転載(山下憲男)


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