八、海岸方面の攻撃

 聨隊長は十五日海岸方面の敵を攻撃するに決し、第一大隊を以て「テレプ」(江東川河口)、第二大隊を以て「アナモ」(坂西川河口)の敵を攻撃する如く命ぜらる。 大隊はひとまず江東川を渡河してサゴ椰子の繁茂せる密林内に遮蔽して敵情の偵察を実施する。十四日夜、猛烈なる降雨で捜索も意のまなにならず攻撃を一日延期せざるを得ない状況となった。

 明けて十五日、江東川河口及び「テレプ」附近の敵情を捜索すべく斥候を派遣すると、江東川に沿い派遣した下士官斥候が急ぎ帰ってきて報告するには、「敵の大軍は江東川の道路に沿い上流に向かって前進中である、もうスグそこに来る。」とのこと。大隊はひとまず奥のほうに退避遮蔽することにし移動を開始したが、同時に敵も我が前方に現れた。

 これに対し大隊本部指揮班は独断攻撃を開始した。敵も急射を受け周章狼狽、自動小銃を乱射したので、本部の優秀なる書記二名が戦死した。当時敵は海岸方面より「アイタペ」方向に退却中と判断していたが、敵は第二十師団正面に増加しつつあった。

  九、坂東川の反転攻撃

 ここにおいて聨隊は、ひとまず海岸道方面の攻撃を中止し、坂東川左岸の敵を攻撃して渡河点を打開し、師団主力との連絡を確保することになった。前回怒濤の勢いをもって突破した渡河点を今度は逆に敵後方から攻撃するのである。

 敵は十六日頃より坂東川左岸の旧陣地に復帰し、逐次第二十師団方面に兵力を増加中で、二十日頃には左岸を完全に占領し、さらに陣地を極度に増強した模様であった。聨隊長は二十二日夜、聨隊の全力を挙げてこれを攻撃することを決し、第一大隊は右第一線、第三大隊は左第一線として攻撃を準備する。所定の位置に到着したのが午前十一時頃と記憶する。

 しかし、ここで困ったことは偵察並びに攻撃準備に要する時間が短かったことであった。聨隊長に「二日間位の余裕がなければ偵察並びに攻撃準備はできない、この様な短時間の準備では成功させる自信がない。」と言えば、聨隊長は「日を延ばせば敵はなお陣地を増強するだろう。」とのこと。

 大隊は万難を排して偵察を実施する。夕刻迄には大体正面の敵情は判明したものの、大隊長自ら第一線に進出して敵情地形を偵察して中隊長を指導する時間の余裕が全くなかった。

 夕刻迄に判明した敵陣地の状況は左の如し。

一、敵は前、後両正面に亘って陣地を構築している。散兵壕には敵を認めない。

二、各陣地は殆ど掩葢銃座である。

三、陣地前方は清掃されその幅は四十メートル位である。

四、敵の監視兵は銃座の上に立っている。

五、敵は天幕を張ってその中に休んでいる。

六、所々にアンテナがある。

七、敵飛行機は盛んに物量を投下している。

 また、一軒屋方向に派遣せる将校斥候某少尉(名前を思い出せない)の報告によれば、一軒屋方面は草原で夜間の通過は困難、敵前二十メートル迄接近し敵陣を視れば、掩葢銃座は二段になっている。銃は下の段にあって上の穴は展望孔らしい、肉弾攻撃は下の銃眼を可とす。斥候長は睾丸を撃たれ歩行出来ず自決する、と悲壮なる報告をもたらす。

 大隊長は日没前各中隊長、配属山砲中隊長を集め黎明攻撃に関する命令を下達す。その要旨

一、大隊は黎明を期し(イ)(ロ)の陣地を奪取して坂  東川を渡河す。

二、第一中隊は草原とジャングルの接際部に沿い前進し  (イ)の前方五〇メートル附近に近接、少くも三肉  迫攻撃班を編成し(イ)を攻撃、奪取後は上流方向  に陣地を確保。

三、第二中隊は小流に沿い前進、(ロ)陣地前五〇メートル附近に近接し少くも三肉迫攻撃班を編成し(ロ) を攻撃、奪取後は下流方向に対し陣地を確保。

四、山砲中隊(砲は一門)小流の向側に陣地を占領し一軒屋方向に対し敵の出撃に対する射撃準備。その他略す。

 大隊長として命令は下達したものの敵情地形の偵察に時間がなく、攻撃に不安を感じつつ部隊を出発させるということは実に後ろ髪を引かるる思いであった。

 夜十一時頃であったと思う。山砲中隊が陣地侵入し架尾を締めると敵はその音に驚き直ちに射撃を開始した。第一中隊の前進は容易ではなかったが、しかし暫くすると射撃は衰えた。黎明近づくと第二中隊は攻撃を開始したもののようで、銃声と手榴弾の爆発音が盛んになった。第一中隊は直前に陣地があると言っていたが、夜が明けてみれば陣地ではなく実は倒木であった、これが判明するや第一中隊も前進を開始した。

 天明後、第二中隊長西川中尉より「第二中隊は払暁

[日の出直前]敵のトーチカ二を奪取、引続き攻撃中、敵の抵抗は頑強にして戦死多し、中隊長自ら先頭にありて攻撃中」の報告を受ける。

 第三大隊方面も攻撃に移ったもののようで銃声が盛んであった。書記を第三大隊に派遣して、「第二中隊は敵陣に突入その一角を占領し、引続き攻撃中。第三大隊右翼方面突撃せよ。」と連絡したところ、書記が帰って言うには、第三大隊は攻撃を中止して、小流の線に集結しているとのことであった。

 
第二中隊は全滅する恐れがあり、聨隊長に「第二大隊を中間に突込んで突撃せしめよと言え」と怒号する。

 午前十時頃、敵の五、六十名位の部隊が連続して(ロ)

の陣地と大隊本部中間を下流に向い移動を開始するのが林間より手にとるように見える。「副官、敵は退却を開始した、どれ位の敵か書記に良く見せておけ」と命ず。その数二〇〇を下らなかった。

 十一時頃、敵の大部隊が我が右翼に向い攻撃前進中との報告を受けた。直ちに山砲に零距離射撃を命じ、第三中隊を山脚に派遣して大隊の右翼を掩護させた。敵は自動小銃を乱射し来るが積極的でなく、第三中隊は依然山脚を確保している。

 我が第一、第二中隊との連絡は途絶した。大隊長の手許の兵力は副官、書記、伝令五、六名であった。敵の飛行機は低空飛来し草原に盛んに補給の物量を投下している。

 昼過ぎと記憶するが、聨隊本部の書記が来て、次の命令を伝達した。「当面の敵は頑強にして戦闘意の如く進展せず、聨隊は攻撃を中止し戦場を離脱して南方に転進する。第一大隊は部隊を集結して聨隊本部の位置に集合せよ。」との要旨であった。

 「馬鹿なことを言うな。大隊は三面敵の包囲を受け、全兵力を第一線に突っ込み、第一、第二中隊は殆ど全滅だ。大隊はこのところで玉砕する。聨隊長も第一線に出て、軍旗と共に突撃せよと言え。」と怒号した。

 しかし爾後、攻撃は進展せず、やむなく涙をのんで薄暮[日没直後]に乗じ兵力を集結した。第二中隊全滅。第一中隊殆ど全滅、生存者僅かに四、五名。第三中隊、機関銃、大隊砲、約半数。合計約六〇名足らずとなった。 つまり、第二中隊だけは敵の一角を突破して河岸に達し、北方海岸方向に戦果を拡張、これに増援協力しようと他の中隊も努力したが、敵砲火に前進を阻止されついに果たせず。第二中隊は孤軍奮闘、夜明けと共に敵の砲爆撃は一斉に同中隊に集中、正午過ぎまで休みなく続いた。頑強に渡河点を固守しようとした第二中隊将兵もろとも、地形を一変するに至まで米軍が猛爆撃を加えたので敵の圧倒的な物量のまえに最後は沈黙するのやむなきに至ったのである。砲爆撃のあとは一面清野と化して、ついに一兵も還らず坂東川の河岸に玉砕した。

 何故、本攻撃が不成功に終ったか。

一、攻撃準備の時間が無かったこと。

二、左第一線たる第三大隊が余りにも早く攻撃を断念し  て戦場を離脱し大隊が孤立に陥ったこと。の二点に尽きる。

 想えば昭和十八年四月、ウエワク上陸当時の我が第一大隊の兵力は約一、二〇〇名、その後の戦闘で漸減し、七月九日坂東川渡河開始時の兵力は約三〇〇名であった。 坂東川、川中島の戦闘に於いて第四中隊を完全に失い、他の中隊も約三分の一までの兵員になった。

 さらに、今また第一、第二中隊を失いその他の部隊は半減以下となる。部下の死体を戦場に残し万感胸に迫りつつ、「豪軍よ、よく戦ってくれた、部下の死体を丁寧に埋めてくれ。」と、独り言を言いながら僅かばかりの部下を率い、夜間聨隊本部の位置に集結し南方目指して転進する。

 この転進で特筆すべきことは、機関銃中隊と速射砲中隊将兵の驚異的な意志と闘魂であった。糧抹は尽き果ててすでに二週間以上、飢餓と疲労のため自らの体ひとつ運ぶにも強固な意志力を必要とした極限状況のなかで、両中隊はその火器を分解し、これを肩にして機動を完遂したのである。絶大な精神力が不可能を可能にしたのであった。

  十、猛号作戦の中止と撤退作戦

 軍は八月に入り五六高地の敵に対し、二度の総攻撃でも攻略することができなかった。いまや相次ぐ戦闘により兵員の損耗が甚だしく、糧抹も尽き、弾薬も少なく、補給の方途もないことから、三日の夜間攻撃を最後に翌四日猛号作戦の中止を発令、ウエワク方面に諸隊を撤することに決した。

 七月十日から二十数日間、悪戦苦闘を重ね、幾多の尊い血潮を流した坂東川をあとに撤退をはじめる。撤退途中の七日正午、坂井川左岸に達したとき、南下してきた約三〇〇名の有力な敵と密林内で遭遇し、熾烈な砲爆撃の下で激戦を展開。ジャングル内の遭遇戦は、近々十メートル以内で敵と確認してはじめて戦闘が開始された。 激戦のさなかで機関銃中隊長は、坂井川右岸の高地から敵の左岸を痛撃できると判断し、万難を排して搬送してきた機関銃で敵の翼側を猛謝した。正面からの攻撃と翼側の機関銃に脅威を感じた敵はついに後退した。

 
そのあと、転進を続け十日には約一ケ月前攻撃前進を開始した大石村に達し、ここにアイタペ攻撃作戦は終了した。

 この時、掌握できた聨隊全兵員は約七〇〇名で戦力は五分の一以下に低下しており、三個中隊が完全に消滅したほか損耗した兵器弾薬は極めて多数であった。

 ここで、「戦史叢書」より関連部分の記述を転載する。

 「渡河点確保を命ぜられた歩兵第二百三十九聨隊第一大隊(原田大隊)も、七月十六日朝には河岸に到着し、十六日から十七日まで東方から攻撃したが成功しなかった。原田少佐は十六日の戦闘で戦死した。

 西岸の歩兵第二百三十七聨隊第三大隊は十七日夜から十八日朝にかけて更に攻撃を続行し、一時は河岸の一部を解放したが、結局は米軍に撃退された。この結果、歩兵第二百三十七聨隊と坂東川東岸の師団主力方面との連絡はその後完全に途絶するのである。」

 「米陸軍公刊戦史」の記録は、次のようになっている。

「七月十六日午前八時、米第一一二騎兵連隊のE中隊が宿営地から南へ移動を始めると同時に、ドリヌモア(坂東)川の東西両岸の日本軍陣地から猛烈な射撃を受けた。米軍の戦線によって歩兵第二百三十七聨隊が遮断される危険を知った日本軍は、渡河点の解放に努力を集中してきた。[中略]一フィートごとの激しい戦いであった。 午後三時頃、米軍の第一線は南部隊の戦線に到着した。移動間の日本軍の戦死者は約四〇名、間隙の大部は閉塞され、北方の米軍部隊は夜間のため陣地占領に移った。 翌十七日、川の両岸の日本軍はこの間隙を保持するための努力を続けていた。このため更に四十五名の日本兵が戦死したが、間隙の残り五〇〇ヤードを保持し続けた。十七日も遅く、暫くの間、間隙が閉鎖されたが、その夜のうちに、たぶん歩兵第二百三十七聨隊の部隊によってであろう約三〇〇ヤードにわたって再開された。この最後の小間隙は、十八日朝米一二四歩兵連隊によって閉鎖された。

 安達将軍はなおもドリヌモア川を越えて補給品を送るために、川中島附近で渡河点を再開し、米軍を分断する計画を持ち続けていた。七月二十一日夜、米一二四連隊はドリヌモア川の東方より相当激しい迫撃砲、機関銃、小銃の射撃をうけた。最初の攻撃は最後には銃剣突撃によって撃退された。さらに日本軍の歩兵第二百三十九聨隊第一大隊が米軍を東から攻撃して川を渡ろうとしたので次々に戦闘が続いた。

 二十二日の日没前、米一二三連隊第三大隊は地区内に新らしい日本兵の死体一五五を数えた。渡河点を再開するため歩兵第二百三十九聨隊第一大隊の攻撃はさらに二十三日夜も数回にわたって行われた。

 しかしこれらの努力は米軍の河岸部隊とアナモ附近海岸の野砲兵大隊の砲火によって失敗に終わった。翌二十四日夜、この戦場でもう一度小戦があったが、この努力を最後として第十八軍は渡河点再開の企図を放棄した。」 攻撃兵団に対する補給持続の限度は、軍司令官以下関係者の念頭を去らない問題であった。

 

吉原軍参謀長は戦後、次のように回想している。

「私は補給の見地より七月末日迄にアイタペ攻撃を終止し、軍を自活邀撃態勢に移すの必要を力説した。軍司令官以下、幕僚皆その点については十分に承知しあるも、如何せん現在奈良大佐の率いる奈良部隊(注 歩兵第二百三十七聨隊)が敵陣深く進攻し現在行方不明、敵陣内に突入した部隊を集結せしむるには、是が非でもアフアの渡河点を奪取せねばならぬ。結局戦闘打ち切りのための攻撃に他ならずとの意見で、これには同意せざねを得なかった。あの堅固なアフア陣地を奪取し得べきか、一抹の不安もあったが誰でも敵陣内に孤立する友軍を救出するは目下の急務にして、軍の攻撃再興は、今度こそ文字どおりの決戦で、死活の分岐点である。軍司令官の眉宇にもその決意歴然たるものがあった。」

 第四十一師団参謀部付星野一雄大尉の手記より。

「作戦参謀と坂東川の対岸に前進している第二十師団の戦闘指令所に連絡に行くことになった。坂東川の渡河点にきたら上空を敵の観測機がのろのろと飛んで見張っている。飛び去るのを待って急いで対岸に渡ったところ、日本兵の屍が数体倒れていた。渡河するところを観測機に見つけられ砲弾でやられたものであろう。

 しばらく進むと、危険地帯といわれているあたりに出た。なるほどその付近一帯は砲撃の跡で樹木が目茶目茶になっている。ようやく第二十師団の指令所の位置に出た。偶然にも、先に坂東川米軍陣地を突破してから行方不明になっていた奈良部隊から連絡将校らがやってきた。 彼等の部隊は、二週間もの間、草ばかり食べていたという話であった。見れば彼の背嚢から天幕、緑色の迷彩服、シャツにいたるまで、すべて米軍のもので固めていた。」


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