十一、後衛陣地の占領、マルヂップ、ゼルエン岬地区への機動(聨隊の動き)

 ここでアイタペ攻撃以降、転進中の聨隊の動きを追うことにする。八月十日大石村に集結した聨隊は、ウラウ川の線を確保して東進する敵を阻止し、軍主力のウエワク周辺への機動を援護することを命じられる。アイタペ攻撃の先陣から一転して今度はしんがり軍となった。

 軍は迎撃と自活の双方をめざし山南地区(アレキサンダー山系南側地区)への転進を命じたが、わが聨隊だけは海岸地区に残留して第一線となり、マルヂップ、ゼルエン岬地区確保の命令を受ける。

 新配備の概要

第一大隊(第九揚陸隊・軍直部隊の一部配属)はゼルエン岬旗山地区。

第二大隊(歩兵第二百三十八聨隊歩兵砲中隊・他軍直轄部隊の一部配属)はニワトリ川マルヂップ地区。第三大隊(実兵力一個小隊程度)は予備隊。

 環境は益々悪化していくばかりであった。即ち食料の欠乏、マラリアの多発、疲労困憊、栄養失調などで体力は加速度的に低下、このため敵弾によるもののほか多数の兵員が、戦わずに陣内に没した。その数は日を追って多くなり、十一月末には聨隊の兵力はわずか三〇〇名になっていた。軍はこの状況をみて、第九揚陸隊、第十五、第三十六機関砲隊などをにわか仕立ての歩兵として聨隊に配属したが、それを加えても辛うじて五〇〇名程度であった。一時期ほとんど動きの見られなかった敵も、十一月初旬から第二大隊正面で活発な行動をはじめた。その攻勢は逐次本格化し、十二月四日遂に大隊長が敵弾に倒れるという状況になった。

 第二大隊は各陣地ごとの死守玉砕戦法をとっていたので、後任大隊長もこの方針で死守敢闘を続けてきたが、十二月末遂に力尽きて大隊長以下全員が、マルヂップ地区で壮烈な最期を遂げてしまった(第二大隊は以降再編されなかった)。マルヂップ地区を制して東進する敵に対して今後第一大隊が死闘を繰り広げることになる。

  十二、ゼルエン岬附近集結まで

 歩兵第二百三十七聨隊第二大隊(宮西隊兵員九〇名内外)はニワトリ川附近を確保して軍の退却を掩護すべき任務を帯びニワトリ川右岸の拠点を占領中であった。ニワトリ川を通過時「宮西、そんなに広正面に亘って占領すれば戦闘力もなく、また掌握もできないから三ケ所位の要点を占領して掌握できるようにせよ。」と注意する。 聞けば部隊長の指導によったものとかで四、五名ずつ分散して広正面を占領していたのである。「宮西頑張れ」と励まして別れる。また、ニワトリ川とゼルエン岬の中間地区は森本隊(第三大隊)が占領する予定であった。 我が大隊は第九揚陸隊主力(主力と言っても中田大尉以下十二名)を併せて指揮し昭和十九年十二月二十五日ゼルエン岬附近に到着する。坂東川渡河作戦以来常に第一線にあって戦闘し心身共に疲労し、兵力も逐次減少の一途を辿りつつある現在、久し振りに第一線を後退してヤレヤレという気分になった。兵員もこれからサゴ椰子でもたたいて澱粉を採って腹一杯食おうと語り合い、幾分呑気を取り戻してきたようであった。

 その時、青津支隊長(歩兵団長)が通りかかり「山下頑張れよ」と激励されたので「閣下、大隊は今、聨隊長の指揮下を離れているので今後は青津支隊の直轄にして下さいませんか。思う存分働いてみますが」と申し上ぐれば、「それは宜しい、聨隊長にそう言っておく、命令は後刻出すからその通りする。」と言われた。

 そばにいた第九揚陸隊の中田大尉、青木中尉に対し支隊長より「ご苦労だけれども山下を助けて一つ頑張ってくれ」と申され、青木中尉、感激して私に「隊長殿一つやりましょう」と決意を見せる。甚だ意を強くする。この支隊長の「御苦労だけども…」の一言はその後の作戦を容易ならしむる重大なる原因であったように思う。

 

 十三、第一線の敗退と敵の急追に伴う緊急配備

 敵の追撃急らしく十二月二十七日以降第一線であった宮西隊および森本隊の兵員が三々五々海岸道に沿い後退を始める。これらを捕らえて君等はどうしたのだと問えば「大隊長殿、敵はどんどん追撃してきてニワトリ川を渡河してきました。宮西少佐殿は川の付近に出ていって、敵の攻撃を受けて戦死されました。部隊はどうなっているか分かりません。連絡も全然つきません。」

 また他の者は次のように言う「森本隊は敵の包囲を受け全滅しました。森本隊長殿も戦死されました。図嚢[地図等を入れる小型カバン]は持ってきました。」、また後から追ってきたもの曰く「大隊長殿、敵は大発(上陸用舟艇)で大崎の鼻の西方にどんどん上陸しています。」、「それは本当か」と尋ねれば「たった今、敵の斥候から追われて漸く逃げてきたばかりです。」という。

 「青木中尉将校斥候だ、兵二名を連れ直ちに大崎鼻に行って、敵の上陸状況を偵察して来い。敵の斥候が海岸線に沿って前進するらしいから、左前の山腹に行って見れば大体分かる筈、上陸状況が分かればよいから、夕刻までには帰って来い。」と命ずる。

 夕刻、青木中尉帰って報告するには「敵の巡洋艦らしきもの二、輸送船らしき中型のもの三、大発四、五隻でどんどん上陸しています。敵の二十名位は海岸線に沿い電話線を引いてゼルエン岬の方にやって来ます。」という要旨の報告であった。

 

第一線を交代して気楽になったのも数日間、また第一線の戦闘部隊となった。しかし、青津支隊の直轄で一切の行動を任されているからこの点だけは気が楽な様であった。しかし、陽はとっぷりと暮れ果て、いかんともしがたく、明二十九日早朝より散兵壕を拡大することにした。


  十四、ゼルエン岬附近の戦闘

 二十九日早朝より散兵壕の構築に着手する。午後四時頃前方にて数発の銃声を聞く。森本隊の敗退せる兵三名帰って来て曰く「部隊長殿、敵はアノ附近のジャングルの中に二、三十名天幕を張って休んでいます。帰途、敵の連絡兵と遭遇して射撃を受けました。用心して下さい。」と言う。

 三十日夕刻青木将校斥候をして敵の捜索拠点を偵察する。斥候は山脚沿いに薄暮捜索拠点に近接し、敵の寝静まるのを待って偵察したところ、敵は監視兵も歩哨も置かず天幕外に銃を立て掛け休んでいるとの報告であった。 また夜間、山脚方面よりの奇襲は地形とジャングルの関係上困難とのことであった。任務は持久戦だ、だが放っておけば敵はどんどん進撃してくるに違いない。敵の出鼻を挫かなければならない。

 ここで一つ敵の捜索拠点を奇襲しよう。しかし明日は昭和二十年一月一日だ、奇襲すれば戦死者が出るのは覚悟の上、年だけは取らしてからにしようと思い、三十一日夕刻、副官にたいして二日未明、敵を奇襲する目的を持って海岸方面より偵察を行うよう命ずる。

 昭和二十年一月一日天候良好、一同皇居を遙拝して内地の事など思いながら奇襲攻撃をひたすら準備する。敵は一月一日迄に大崎鼻に観測所(四角のヤグラで組み立てたもの)の附近に数門の砲を構え、観測台には常に一、二名の監視兵を立ている。我に一個の擲弾筒[白兵戦等で使う手で投げる爆弾]でもあれば山脚方面より潜入発射して敵の度肝を抜き且つ大混乱させるのだがと語りつつ負け戦の惨めさを思う。

 大隊は一月二日未明、敵の捜索拠点を奇襲するため、午前二時頃陣地を出発し攻撃準備位置に到着する。青木将校斥候をして電話線切断のため潜入した。攻撃準備位置に待機中、約三十分位して斥候の伝令が帰って来て電話線切断成功の報告を受ける。

 大隊はただちに攻撃準備位置を出発、敵の前方五、六〇メートル附近に接近したとき、大崎鼻に一発の信号弾が上がった、と同時に間髪をを入れず百雷の一時に轟くが如く砲撃を開始し、敵の拠点およびわが進路の左方ジャングル内に相当広範囲に砲弾が落下する。

 敵の拠点にいた部隊は自動小銃を乱射しつつ海岸に移動して水際を後退し始めた。敵の砲撃は甚だしく前進不可能、また拠点の敵兵も後退を始めたが、夜間のこととて追撃もできず、進退極まりゼルエン岬の陣地に後退することを決し大声で集合を命ずる。

 敵の砲撃は甚だしく、逐次射程を延伸してゼルエン岬陣地附近に集中する。敵の射程延伸にともない我が退路は比較的安全となり兵力集結後は比較的容易に水際を後退し、一兵も損ぜずゼルエン岬海岸の岩の下に後退する。 敵の射撃は一斉射撃にて、ちょうど艦砲射撃の観を呈し、誰いうことなく敵の砲兵の銃は二連装だとか三連装だとか、その射撃の激しさを噂する。黎明と共に敵の砲撃も止んだので、陣地に監視兵を配して、正月三日だということで午前中岩屋の中で兵員を休息させる。さらに、これより優勢なる敵の包囲攻撃を受け「サラップ」附近に撤退する十四日までの約二週間、砲兵および戦車を増強し且つ飛行機の支援の下に攻撃してくる優勢なる敵と「感状」に記されている通りの死闘を繰りかえし支隊攻勢確立まで敵の企図を封殺した。

 
十五、玉砕命令下達と終戦(聨隊の動き)

 聨隊は、五月十八日に軍の直轄となり、ヌンボクの軍指令部への前進の命をうけ山南方面に向かい機動を開始した。アイタペ作戦から十ケ月、連日連夜死闘を重ねた海岸線との決別であるが残存兵力は極めて少なく増加配属された部隊を加えても一三〇名であった。

 

軍は聨隊に対しヌンボク到着前にセピック河畔に前進、

セピック集団(ほとんどが後方勤務の軍直轄部隊)の中核となり同地区を防衛すると共に戦力の回復を命じられた。このころ、敵の進攻は益々速度を加え軍主力方面はウエワク南方ツル山麓に、また山南方面も逐次ヌンボク方向に圧迫されはじめていた。

 七月、軍はヌンボク複郭陣地を玉砕の地と定め、最終的には諸隊をこの中に収容し最後の一兵までの徹底抗戦を下達した。(注 七月二十五日に安達軍司令官は第十八軍全軍に対する玉砕命令を下命した)

 

そのうちわが聨隊はチャイゴール地区で戦闘中の師団主力への復帰を命じられ、八月二日から六日の間にそれぞれブンブ川西方地区の戦闘に加入した。このころ師団の戦力は二個大隊以下でその防御正面は二十キロにおよぶものであった。ジャングルに遮蔽し敵を不意に急襲し、あるいは潜入斬り込みを行うなど前面の敵に痛撃を与えたが、戦線は入り乱れ随時随所で戦闘がはじまるという状況であった。各隊は当面の敵を阻止していたが、敵の有力部隊がチャイゴール、ウイトペ間のわが防御間隙から潜入侵透し、軍指令部所在地ヌンボクの西南ヤンゴールに進出した。

 軍は敵のヤンゴール占領を各隊に通報すると共に、玉砕命令を同時に下達した。将兵の誰もがいずれはとの覚悟を胸深く秘めていたが、その玉砕の時が目前に迫ってきたことを誰もが直感した。

 明けて八月十五日、敵の砲爆撃が急に途絶え、戦場は静寂な自然にかえった。だが戦い続け疲労困憊の極にあった将兵の誰もこの異変に気付くものはなかった。午後、敵機が「日本降伏せり……」のビラをまいし飛び去ったが一笑に付していた。十六日も銃砲声は聞こえなかった。 ようやく情勢の変化を感じはじめたころ、十八日「戦争は終結せるもののごときも、大命に接せず依然戦闘続行」、二十日「潜入斬り込みなどの積極行動の中止」、二十一日「正式停戦、軍旗泰焼」の命令を受領した。玉砕命令が下達され二、三日後に玉砕する部隊がまさに奇跡的に終戦をむかえたのである。

 北支那からニューギニアに上陸して二年有余年。悪戦、苦闘、死闘の連続であった戦闘はついに終わった。

 軍旗の泰焼は、昭和二十年八月二十四日十一時、チャイゴール東方ブンブ川とブギ川の合流点の丘の上で行った。栄光の軍旗も、聨隊数千の戦没英霊と共に、赤道の彼方に煙となって消え去ったのである。

 九月中旬、連合軍からウエワク対岸のムシュ島へ集結の指令をうけ、十月初旬ボイキンにおいて武器、弾薬を捨て十月末までに同島東部地区に集結を終えた。

 ムシュ島には十二月に復員第一船が入港、以降相次いで来着、歩兵第二百三十七聨隊は昭和二十一年一月十六日病院船氷川丸に乗船、一月二十四浦賀に入港した。

 しかし、懐かしい日本の土を踏みしめて復員できたのは聨隊で四十六名、第一大隊は実に八名に過ぎなかった。 日本軍と戦った「豪陸軍公刊戦史」の山南の戦闘の最後の部分は「日本軍が示した決死の防禦戦闘は、情況上望みないにもかかわらず凄惨な戦闘に堪え、病気と栄養失調という悪条件であるだけに、正に感嘆に価するものである。」と総括している。

 

 十六、軍司令官 安達二十三中将

 ここで第十八軍司令官、安達二十三中将についてふれることにする。田中兼五郎参謀「安達軍司令官の人格は、昭和十七年十一月十六日に示された統率方針によく現れていると思う。明瞭でしかも強い統率であった。第十八軍に関する限り、幕僚の思想や意見が軍の統率上の問題になることはなかった。

 統率方針は、至厳なる軍紀、旺盛なる攻撃精神、鉄石の団結、実情に即応する施策、以上四項目である。軍司令官は身を以て厳正な統率を貫かれた。また自身常に攻撃精神を堅持し、いかなる場合もへこたれることはなかったし、常に団結の維持強化に意を用いられた。軍司令官の意図されたのは、男性的な武士道的な団結である。当初は二十数貫(七十五キロ以上)ある堂々たる体格で、こわい人であった。もともと愛情の強い方であったが、ただその表現が男性的だったのである。作戦が長期にわたり、糧抹がなくなり、将兵が次々に倒れる段階になると、軍司令官がこれに断腸の思いをして居られるのが周囲にも良く分かった。この頃になると、軍司令官自身やせて、しかも歯が一本もなくなり、サゴ椰子の澱粉をただ飲み込むだけになってしまわれた。態度にも柔らか味が増し、道で行き合う兵士にも『オウ、オウ』と声をかけられるような情景がよく見られた。」

 杉山茂参謀「軍司令官は統帥の発動にあたり四項目

[前述]を示され最後まで貫き身をもって実行された。統帥は純正無雑、一点も私心をはさまぬものでなければならぬということであり、自らを厳しく律せられた。またこれと関連し、幕僚統帥を強く排斥された。特に「参謀長をして指示せしむ」と明示した事項以外に関しては越権を許されなかった。攻撃精神も最後の最後まで強調し実行された。軍の各兵団がばらばらに戦場に到着し分散して作戦することが多かったため団結のため「信と愛」という言葉を常に強調された。また、好んで第一線をよく視察された。」

 吉原矩参謀長「閣下は自分を律することに厳で、信念の強い方であった。第十八軍は市ヶ谷で編成された。私は少し前に北満から到着し、その後閣下が到着されたが、当時閣下は数日前に夫人をなくされたばかりであったのに、このことを誰にも一言も話されなかった。同じような件が終戦後にもあった。船がついて令妹のご病死を伝える手紙がきたが一言も漏らされなかった。
第十八軍の統帥も、透徹した誠に立派な統帥であり、真に軍神という言葉に値する将軍であったと思う。軍指令部は非常に優秀な人材で編成されていた。これは必ずしも陸大の成績が良かったというようなことでなく、いろいろな意味で全軍にも数少ないと思われるような人材が集まっていた。参謀相互実によく融和し一致して軍司令官の意図に従った。
ただ、その透徹した強い統帥が隷下各師団長以下を、それぞれの能力を十二分に発揮して働かせたか否かという点については、多少の問題もあったかと思う。」 
また、第十八軍主力は停戦後、連合国の指示に基づいて、ムッシュ島に集結したのち十二月から翌昭和二十一年一月にかけて内地に帰還した。
しかし軍主力の帰還後、戦犯容疑者あるいはその証人として、一三八名がラバウルに残留した。そして、ほぼ部下戦犯容疑者保釈の目途もついた昭和二十二年九月十日、安達軍司令官は、ニューブリテン島ラバウル戦犯収容所で自決。次にその二十数人の部下に宛てた遺書を掲載する。

  在コンパウンド[注 当時の豪軍ラバウル戦犯収容所]

元第十八軍将兵諸君御中

 私は今日を以て最愛の諸君とも御訣れすることとした。

私は昭和十七年十一月彼我戦争の勝敗の帰趨将に定らむとする重大なる時期に於いて、軍司令官の要職を拝し、皇軍戦勢の確保挽回の要衝に当たらしめられしことを、詢に男子一期の面目にして有り難く存奉りし次第である。然るに部下将兵が万難に克ちて異常なる興奮に徹し、上司亦力を極めて支援を与へられたるに拘らず、私の不敏の故を以て能く其目的を達するに到らず、皇国今日の境地に到る端緒を作りしこと罪万死も猶足らずと存ず。

またこの三年の作戦の間、十万余の青春有為の将兵を喪ひ、しかもその大部分が栄養失調に基因するものなるを思う時、御上に対し奉り何と御詫びの言葉もなく、只々恐れいるばかりなり、また私は皇国興廃の関頭に立ちては最後の血の一滴まで捧げ尽くして奮闘に徹するを我等国民の我等軍人の常の道なりと信じ、打ち続く戦闘と補給難に極度に疲れ、飢え且つ衰えたる将兵に更に要求するに凡そ人として堪へ得る限度を遥かに超越せる克艱を以てせり、そして全将兵がこれに対し黙々としてこの命令を遂行しつつ、力尽きて花吹雪の如く散り行く姿を眼前に眺めし時、君国の為とは申しながら、我胸中に湧き返へる切々の思いは唯神のみぞ知るべし。当時私は陣歿するに到らず、縦令凱旋に直面するも必ず十万の将兵と共に南海の土となり、再び祖国の土を踏まざることに心を決したり。

昭和二十年八月終戦の大詔を、続いて停戦の大命を拝し、

聖旨の徹底、疲憊の極点にある将兵を無事にお手許へお返し申し上ぐるに万全を期し、且つ戦犯関係将兵の前途を見届くることの甚だ大なるを思ひ、これら処理の為今日に及びたる次第なり。

然るに右三要件も亦小生の不敏にて所期の成果を挙げ得ざりしも、今や大体一段落となり特にCコンパウンドの大部が終了せしやに感ぜらるるを以て初志を実行することとした。

即ち上述の如く私は御上に対し奉りまた国民諸君に対し、何とも申し訳なしとの思いに満ち満ちている。いかしこれは余りにも重大にして微々たる私の一死の如き御詫びのしるしともならず、かく考えることはむしろ私として僣越な考えであると思う、即ち私は純一無雑に初志に順ひ十万の陣歿、十の殉国[注 収容所での部下光部隊戦犯刑死者]の部下将兵に対する信と愛とに殉ずるのである。
祖国のこの現状を目前にして、渾身の努力奉仕を敢えてせずして逝くことは、私も相いすまぬことと思う。また老体を提げて復興に挺身しがたい意欲胸に燃えざるに非ず。然し彼の十万の陣歿、十の殉国の将兵の枯骨をこの地に残して私が生きて還るが如きは到底出来得べきことではない。これは理屈や是非得失を超越した思いであり、無論其の中には私の詩や哲学も含まれては居るが、更に将師としての動かすべからざる情熱信念であるのだからこの点は何卒勘弁して欲しい。

さて諸君には作戦三ケ年の間、非常にご苦労をかけた。そして皆立派にやって下された。これに対する衷心感謝の思いは今以て胸に燃えている。然るにその諸君を今日の境地に立ち到らしめたことは何時も申すことながら、何とも申し訳ないことで御訣れをするに際し、更に衷心より謝する次第である。尚最後まで諸君と苦労を共にし、諸君の全部が郷里に還る姿を見届けてからと考えたが、凡そ事は時期というものがあり、どうも今が時期であるように思うからこの点も何卒諒承して欲しい。

御国の大事を前にして個人の幸不幸を言うべき筋合いでは無いが、しばらくこれを許して戴きたい。私は個人として実に幸福なる一生を送ってきた。

明治の聖世に生育して国運興隆の澎湃たる潮に乗じて生長し、しみじみ皇恩の有り難さを身に徹し、そして軍人としての最後の十年を戦陣に本分を徹底するの機会を与えられた。

一身に関する限り誠に有り難き一生であった。然し以上にも劣らず、この世を辞するにあたって、深く自分の幸福として心肝に銘するものがある。これは諸君が私に示して下さった極めて温かい情誼情愛である。私は最近二十数名の良い子供を持ってその情愛の下に生活しているような有様であった。私がこの温かい情愛、人間の美しい面影を一生に於ける最後の感銘として世を辞するの幸福を与えられたことにつき、深く諸君に御礼を申し上げる。

それでは諸君よく自愛なされそして無事に帰郷の上御国の為に御尽くしになることは勿論ながらまた諸君の御多幸を祈る             敬具。

極めて多難なる邦家の前路は少壮溌剌たる人材に依り著々打開せられ行くべきを確信し之を祝福す。

 二伸

 之は申すまでもないが私の今日の事はニューギニア作戦の特種の様相から起こったことで他方面のことは全く別に考うるを要すると思う。自分は自分の特種の立場を離れて言えば左記論語憲問第十四に於いて孔子が子貢の問に答えて管仲を論ぜし意見に大なる興味を有するもので(全面的同意に非ず)管仲の如き小節の義理と世評等を超越し真に邦家の為具体匡救を断々乎として行って行く大力量、大手腕、大気魄を発揮、線の太い大器の出現を望んで居る位である。呉々も自分はニューギニアの特種の事情を基として終始して居るのである。 以上。


「戦史叢書」より山南邀撃戦の関連記述を転載。

  第四十一師団長は、八月一日から三日の間に各隊長、副官を招致して、玉砕に関する軍司令官の決意を伝達した。特に第四十一師団の正面のガリップ、チャイゴール付近に対する敵の攻撃は熾烈で同師団と軍指令部との連絡は十三日まで途絶した。同師団は先に軍がセピック地区で再建を図った歩兵第二百三十七聨隊の到着を迎え、チャイゴール方面に投入要地の確保に全力を尽くしたが戦況は熾烈で豪軍の進出を許した。八月十五日には軍司令官は刻々最終段階に迫る戦況にかんがみ、軍指令部を全軍玉砕の中心とし、軍司令官以下、その最後の進退に真に軍の本領を発揮すべく、全員武器を整えるよう指導した。

 「軍の玉砕」思想を底流とする、これらの軍命令は大東亜戦争全般経過からみても、極めて異例に属する命令である。また、これに先立って七月八日、南方軍総司令官は第十八軍司令官に対して、その敢闘を賛える「感状」を授与した。「軍の感状受領」ということも、これまた異例のことであった。これらの事実は第十八軍のおかれた状況が、戦争全般からして、いかに大変なる地位にあったかを端的に物語るものであって、第十八軍将兵の苦難を別の面から立証するものである。

 南太平洋の戦局は戦争後期に入ると、日本本土はもとより他の戦場からも完全に遮断されることになった。世界戦史上からも例をみない、方面軍という大きな組織の軍隊が、一年有半という長期間にわたって、敵中に孤立するという異常な事態である。
一〇万を越える大組織、しかも衣食住すべて人間としての極限をはるかに過ぎた過酷な条件の下でよくこれだけの集団が最後まで組織を崩壊させずに戦えたものだと三嘆の声をあげざるを得ない。首将に人を得たことも大きな理由であろう。幕僚に選抜された人材が配置されていたことも事実である。しかしながら、ソロモン、ビスマルク諸島、東部ニューギニアとほとんど日本全土に匹敵する広範囲に散在する、食うや食わずの軍隊を一つの目的にともかくまとめ得たものは、簡単な一つや二つの原因からではないと思う。
軍隊としての「らち」を越えたところで、日本民族の精神の高さを見事な光芒をひいて示してくれた。最後に、「どこまで戦ったか」という具体例をアイタペ、山南邀撃戦を共に戦った一個師団を例にとり兵力変動表で示す。生半可な抽象論ではなく、「軍隊が戦うということは、どういうことなのか」、一本の変動曲線が十分に物語ってくれると思うからである。以上。戦史叢書より転載。


次のページに進む  TOPページに戻る HOMEページに戻る