七、アイタペ、飢餓、極限状況

 ここで、歩兵二三八聨隊小隊長大塚邦夫少尉の「飢餓戦史」を転載する。「アイタペ戦」、「山南邀撃戦」を飢餓と極限状況における戦場心理の面で書かれており、原本は約九〇頁の長編であるが紙面の都合で十二頁に編集した。

  第二次世界大戦史上我々が経験した長い間の「飢餓と戦闘」は最も悲愴残酷であったと信じている。日本陸軍戦史のニューギニア戦はアイタペ作戦の玉砕的勇戦を綴り「以下軍は困難なる現地自活作戦に移行した」とたった一行で終わっている。

 この一行の中に死より数倍の苦痛と悲惨極まりなき飢餓の中に一粒の米もなく終戦まで戦い続けた飢餓戦史があるのだ。この間にいかに死の安易さに魅せられたか、また如何に生の苦痛かを嫌というほど経験したか。 

 

昭和十九年三月私はマダン東方ゴム河河口の海岸警備の任に当たっていた。原隊たる歩兵二三八聨隊の主力はラエ、サラモア、フィンシュハーン(一部参加)の戦闘に敗れマダンに向かい撤退中であった。その敗残兵の姿は一言にしていえば乞食の群れである、しかもひどい栄養失調者で悪魔と死神にとりつかれている乞食である。顔面は蒼白で目は窪み頭髪も髭も伸び放題、肉という肉は落ちて骨だけが体の全部のように見え、衣服は汚く汚れて破け、裸足の人、帽子を被らぬ者、銃を持たぬ人など凡そ軍隊というものではなかった。

 飢餓と疫病、酷暑、大湿地帯、大密林の中で更に敵機の銃爆下をともかく生き続けてマダンに到着したのである。「マダンに行けば食糧も薬品もあり必ず体力を回復させることができる」と信じつつあらゆる困苦を克服し虫の息で後退してきたのである。その期待は無残に破られ、マダンもまた敵機の銃爆下に晒され、食糧も薬品も欠乏し、休息する家屋すらない。多くの助かるべき人達はみすみす死ななければならないのだ。容赦なくマラリア蚊は彼等に熱病を伝染させ、死傷者は続出していた。 

四月以降輸送船は途絶え、遂に一粒の米も一服の薬も補給されない運命に追い込まれてしまった。もう必然的に自滅の運命を背負わされたのである。大湿地帯や大密林には我々を満足させる植物は殆ど無いし、もはや私自身この運命から絶対に逃避することは出来ない。かくしてラエ、サラモアよりマダンまでの撤退路は飢餓者の死体によって埋められ、マダンは毎日病死者が増えていった。

  大密林の細い路傍に野垂れ死にすれば銀蠅の群食によつて忽ち骨だけとなってしまう。路傍に小屋があるとその小屋には必ずといっていいほど衣服をまとった白骨が数体、側に水筒をおいて横たわっている。病気か衰弱して部隊と共に動けなくなった兵士達の最後の姿である。 十九年六月マダンよりウエワクに集結した軍の兵力はそれが全員病弱であったにしろ約数万を数えた。食糧は極端に欠乏し間もなくゼロになる日が計算された。軍はそれによってアイタペ作戦を決意し七月中旬を攻撃の日と定めた。このままで自滅するとしたら前面の敵を突破し包囲から脱出しなければならない。
 
 弾薬、食糧が無くとも昔やった肉弾がある「敵陣に肉弾をもって突入し、前の一人が斃れたら後の一人はその屍を踏み越えて一歩前進せよ、続いて同じ様にして敵陣地を突破せよ」これが猛号作戦方針であった。肉弾という最も高価な弾丸を一発の鉄片と取替えるという無謀な作戦は何と悲しきことだろう。「突入したらそこにある敵の食糧を取って食い、更にホランジアにまで前進せよ」ということで、兵士達はすでに敵の食糧にありつけることを夢見ていた。この作戦に失敗すればいずれ我々は自滅だ、どうしても勝たねばならない。死の不安はあったにしろアイタペ攻撃は「希望の夢」でもあった。

  七月初旬友軍はアイタペ攻撃に乾坤一擲の夢を託してウエワクを出発した。米を約二斗、塩、味噌各一升これで配給はもう無いと言われて皆最後がきたと思った。将兵は道を急いだが、昔一日十里も平気で行軍した健兵達は二里がやっとの病弱兵ばかりで予定の攻撃は遅延した。これを察知した敵は空海より猛烈な攻撃を開始、アイタペへの細い海岸道に弾丸の雨を降らせた。

 部隊の行動は昼間密林に退避し、夜間海岸道に出て前進するという状態であった。七月中旬の終り頃、それでもウエワク、アイタペ間に兵力を展開し肉弾の段列を敷き、敵陣地への死の突入を開始する態勢を整えた。敵はこれを迎えるべく万全の火器をその前面に準備し我々肉弾の突入を待っていたのである。

  七月下旬歩兵第二百三十七聨隊の主力は坂東川前面の敵を攻撃して第一線陣地を乗り越え、第二陣地に突入すべく次の河畔に進出した。この状況はいち早く後方の我々に伝わり敵弱しと思い、うまくいくらしいと喜んだ。しかし敵は海上から逆上陸を決行して二百三十七聨隊を忽ち包囲して徹底的な砲撃を開始した。部隊は玉砕覚悟で戦闘していた。やむを得ず軍は主力を奥地に移し、そこから一挙に海岸線まで押し出そうとする態勢に立て直すべく、我が部隊は第一線に招致された。

  私は聨隊砲のため行軍は主力より三日ずれることになっていたので戦友達とこの密林内で別れの挨拶を丁重にした。すでに全員死を予測していたので、それは一層悲壮な別辞であった。私たちの戦友は将校となり、殆ど小隊長となった。これが戦争への初陣なのであった。私自身死にたくないという気持ちでその晩前進を開始したのである。

 戦線にいると砲撃は激烈となり、砲弾は弛み無く炸裂し、海岸には死体が累々として横たわり、腐敗した悪臭は附近一帯に漂っていた。渡河点には魚雷艇が待ち伏せし海岸から少しでも奥地へ行けば湿地帯で動きがとれず砲を持った我々の行動は全く困難となってきた。本隊に遅れること五日にして前線に到着した我々はそこから前進する必要はなくなっていた。なぜなら、軍の主力は殆ど玉砕してしまったからである。

 密林に展開した軍の主力は、匍匐しながらじりじりと敵陣地に肉薄、七月末、未明本陣地に突撃。完全に準備された火器の前に現れた日本兵は将棋倒しのようにやられて屍の山を築き、附近を血の海に染めた。

  戦傷者のうめきは密林に響き、人々はかすかな呼吸をしながら「君が代」を歌い「海ゆかば」を口ずさみながら死んでいった。また後方にいた部隊は敵の大砲の間断なき弾雨の洗礼を浴びて一発の攻撃をすることもできずに殆ど全滅した。

 附近一帯の密林はもとの地形が一変するほどの大量の砲撃で、密集していた人間もろとも焦土化されてしまった。我が聨隊も軍旗と僅かな本部員が生き残り聨隊長までも間もなく戦死した。

  昭和十九年九月下旬、主食の米をすっかり食い尽くし、附近一帯のたべられそうな草木も殆ど取ってしまった我々は、サクサク(注 サゴ椰子の幹の皮をはぎ、その中の髄をこすつて粉にし漉して沈殿させた澱粉状のもので、乾燥させると携帯に便利。しかし、ジャングルの中での乾燥は陽の当たる所は米軍機から発見されるので容易ではない)だけに頼ってもおれず、またニワトリ川河口でただ餓死する日を待っているわけにもいかなかった。

 栄養失調の病弱者ばかりといえども未だ軍人であり戦士であった。残された使命は我々がこの島にいるという事実を敵に示して一兵たりともこの戦場に釘付けにし、一発でも余計に弾丸を消耗させるという作戦しかなかった。それにしても食物がなければどうしようもない。その食物を求めて聨隊は山間部へ移動することになった。その数僅か二〇〇名余りそれも他の部隊の人員を合流させての数である。

  私の肉体は栄養失調その極に達し、疲労困憊し、歩行さえ困難になっていたので、出発のその日、行程半ばにして密林内に転ぶように我が身を横たえてしまった。肉が落ちて背骨は土間につかえ仰向けに寝られない。棒のような手で胸を擦るとアバラ骨が一本一本むき出しになっていて起伏の強い洗濯板のようである。落伍者は死を意味する、大密林に食も薬もなくただ一人、枯れ木の如く朽ち果てるばかりだ。過ぎる密林で数多くの餓死者の哀れな腐敗の姿や、骸骨を見続けてきた私は今や自分の最後の辿るべき運命を知った。

 私は装備を捨てることに気が付いて、双眼鏡、時計、革脚半、革袋を捨てそしてやっと三メートル程歩いてまた密林に転がった。十分休んだ後、今度は背嚢を降ろして衣類、食器類、書類を捨ててまた歩いた。十メートル位で同じように足が進まずまた密林に横になる。私はこのところで捨てるものを更に考えた、これから命が幾日持つか分からないが最小限必要なものは何だろうか、一つ一つの品物はおのおの生活に必要なものではあるが、ことここに至れば運命をこのところで賭けねばならない、とにかく現在を生きねばならないのだ、土人のことを考えれば何とか生きられる。

  あれもこれも捨てて残ったものは天幕、飯盒、水筒、それに天幕を半分にした敷布だけだつた。今度は三十メートル位歩いたが駄目だつた、腰に軍人の魂たる軍刀がぶら下がっている。疲れ果て痩せ衰え瀕死の如き重病人たりとも軍刀だけはどうしても捨てる決心がつかない、武人たるものの最期は日本刀を抱いて勇ましい姿で死ぬことが唯一の死に方であると思うのである。

 死体が銀蠅に食い荒され、或いは腐敗しようと死に際だけは将校であることを誇示したいという気持ちなのであろうか、結局背嚢にくくり付けることにした。そして、一本の木を拾って杖にしてまた歩き出した。百メートル歩くのに二十分ぐらいかかったろう、そして十分ぐらい休んでまた百メートルとそれを数回繰り返して行くうちに今度は二百メートルと延ばして行けた。

  陽が傾いてとっぷり暮れると密林は完全に真っ暗となる。寂しさと悲しさに一人泣きながら、暗い道をそれでも歩き続けなければならない。やがて炬火をつけて迎えの当番兵が私を見つけてくれた時は一度に全身の力が抜けてしまった。

 彼に抱かれるようにして露営地についた時は夜半であったが、友人がカンフル注射を持ってきて射てといい、兵隊がヘビを半分もってきて食べろという。情けが身にしみてまた泣いた。

  昔健兵時は完全軍装で二時間あれば踏破したのに今やそれが一日の行程なのである。山間部の要点「トング」には敵の警戒兵が駐留している。部隊としてはこの敵を追い出すことが現地自活上絶対に必要であった。命令によって私以下十名が夜襲することになり、密林道を手探りで進み腹這いながら音をたてずに前進した。

 夜襲だとか斬込隊だとか勇ましいが、事実はまるで乞食の病人それもイザリのような恰好で敵地に入ってゆくだけのもので、火力も掩護射撃もゼロなのである。敵に発見されないでうまく奇襲すれば、敵が逃げてくれるだろうと思うことが唯一の頼みである。当時小銃弾の携行は一人約三十発のみで勿論補給は全く無く、戦闘に使う弾丸は一発としておろさかにできない状態であった。しかし一度敵に直面すれば三十数発の弾丸は十分とたたぬうちに撃ち尽してしまうだろう。弾丸を一発消耗することは我々の生命の灯を一刻早く消して行くのだ。

  今更逃げるわけにも行かず、眼前に敵の宿舎がすかして見えた時、私は死を覚悟することに躊躇しなかった。私の同僚の殆どは既に死んでいる、それに全てのことはもういずれにしても死ぬ運命にあるのだ。もっともこの頃はまだ気力があったから安易な死に決心がついたのであるが、心身共に弱り果てた終戦前の頃には反対に死にたくないと思い続けていたし、決して自ら死のうと考えたことは無かった。

 
夜が明けてしまえばそれで終りだ。私は「突っ込め」と号令をかけ兵舎めがけて走った。走ったといっても栄養失調なのでふらふらとのろのろ進んだ。皆一緒で一様であった。機関銃弾に体が蜂の巣のようになることを今か今かと思っていた。やがて兵舎の縁に辿り着いたがそこに誰も居なかった。敵は我々の夜襲を恐れて既に他へ退避していたのである。私は緊張し疲れ切っている肉体を感じつつ我が身の幸運さに感謝した。

  昭和二十年元旦、飢餓と弾雨の中に史上この上ない悲哀の中に正月を迎えた。しかし飢えつつ生きている我々にも一つの楽しみがあり夢がある。豚肉や鳥肉を食べることが楽しみであり米が夢である。この楽しみと夢に於いて明日を希望し、はかない将来に期待する。いかに激しい空襲や病気になろうとも、恐怖、悲哀、絶望、臨終にあっても、この意識が強いのである。

 
 祖国も故郷も肉親もそして聖戦も忠義も愛国もどうでもよい。死ぬ人は同じ様に「米が食べたい」と念じつつ近くの草をむしって口元に運ぶ。この夢に対する最後の動作なのだ。感傷も郷愁もない、本当の姿なのである。それでもやはりかすかな感傷は肉体の一部に残っている。それは南十字星や月を見て故郷を思い親に会いたいと思うことではない、同胞が哀れな姿で名も知れない誰もいないような密林で死んでゆくとき、我々は死場所について考えるのであった。

  「アイタペ」の玉砕が死ぬ場所として最もよい所であったと思う。そこには多数の仲間が一緒に死んでいる。山間の僻地で一人死んでゆくことは悲しく哀れに考えられるのである。そろそろ人間の域から動物になり下がってきている我々は、歩きながら何か食べる物はないかとキョロキョロし、イナゴやバッタなど取り次第、羽をむしって生で食べたりキノコやカラシ菜など見つけるとむしってまるで兎のように、生で食べ始める。また毛虫、トカゲ、ヘビを取って蛋白質を補い、木にいる油虫を取って脂肪分を摂取するなどの気を配りつつ、栄養失調から抜け出そうと努力した。しかしマラリアや胃腸疾患などで体は少しも良くならない、或る人がサントニンを持っていたので回虫駆除を試みたところ、十六匹の大きい虫が固まって降りた。私は棒の先でその虫を一匹づつ数えながら、驚きの余り暫くそこを離れなかった。

  昭和二十年二月私は聨隊旗手として重大な責任感に自らを励まし密林内を歩いていた。部隊内で旗手程悲壮な決心をするものはいないであろう。自分の死を犠牲にしても軍旗を守らねばならないという自覚はどんな場合でももち続けるのである。そして軍旗を無事に傷つけずにできたら、死は全くの光栄であると考えていたのである。 私が現在生きていることは逆にいえばあの苦しい飢餓の戦場で軍旗を死守するという自覚を持続したお陰だと思っている。死ぬほうが余程楽な環境に毎日を生きているということは、まことにもって想像を絶することである。これほど苦痛の戦場を生き延び得たことはあの世界大戦の中で我々だけであろうことは疑いないと信じている。紙と鉛筆があってその頃を日誌に綴れたら、この苦しい戦いを深刻に報告できるのだがそれができないのはまことに悲しいことである。

  終戦後、幾多の探検記と戦記を読んでみたがこれほど悪い状況下を経験していないのである。本当にニューギニアの戦場は酷かったとよく人に言うが聞く人はさほどに思っていないしまた想像がつくものではない。死地に踏み込んでいる場合少しの時と場処が生死を分かれさせる重大な運命をもっている。

 部落へ入れば、椰子やパパイヤの実があり、小さい農園があってバナナやいろいろのイモがあるので、どうにか腹を満たすことができる。しかしその畑もほんの小さいもので百名位が食べたら一日位で終わってしまう。まこと我々は土人達の重要な食物の全てを食べて彷徨っていたのである。

 従って土人達は我々に非常な憎悪を持ちだした。同僚の川村少尉の一行六名は、小部落の一戸の家で食事をつくっている夕刻、突然手榴弾を投げ込まれ、あっという間に三名が即死、二名が傷ついたし歩哨に立ちながらシラミを取っていた為に狙撃されて戦死した者、イモを掘っていた為殺された者、密林で部隊と離れて休んでいた為に槍で殺された者など多かった。

  私とてその経験は何度もあった。その時、疲れ切っている肉体に霊感が電気のような速度をもって動作を命ずるのである。この霊感が働かないと、勿論あっけなく殺されていると思う。やっと歩いている肉体が突然の近接射撃に、瞬間ばたりと倒れるとそのままごろごろと転がって射道から外れたり、見えない手榴弾の落下点を知って爆破寸前に伏せたり、自分で不思議な程の力を感ずるのである。これを一口に奇跡と言ったり運がよいというが、私は一つに霊感の力があってそれが自分自身の力であると信じている。俗に精神力という。敵襲に家の中で逃げ遅れた瞬間に私は敵前十メートルの弾雨の中を横切らねばならないことを知った。そしてそれを実行する方法を咄嗟に決定した。私はそのような時少しも沈着でも勇敢でもない。ただ、私の魂、即ち霊感の命ずるままに肉体が行動しそれが常に適切であり安全であり完全な結果であっただけである。

  従って霊感は正しく判断し予感すると思う。その霊感に助けられつつ行動して生きて来られたのである。そしてこれは誰でもが持っている。では何故誰もがその霊感と霊力で生きられなかったのか、他の人間が作る作戦上の命令に依って、この霊感の命令が抹殺されてしまうからである。霊感が行っては駄目だと囁いても、行かねばならぬ命令が絶対的な強制力を持ってのしかかってくるからである。その時それらの人は、もう駄目だと予感し、会話や動作の中に出すものである。結果はその予感通り嫌な事実として表れてくる。戦争は常に人間の本態(霊感)に矛盾する事柄の連続であり、その結果は死への運命につながることである。

 昼間の疲労と飢餓に歩き続けた人間が、ある地点に辿りついた時全肉体と心魂を傾けつくしたためポッコリ死んでしまうのだ。その人間は途中歩いている時一つの夢によって現実を忘れてしまうようだ。危険地帯にある時人間は誰でもそこから脱出して助かりたいと願う。死の孤独を嫌悪した人間は全能全力をもって他の人と行動を共に続けていく。

 もう自分でないと思う肉体だけが霊力によって動いているだけなのだ。そのとき死期に近づいている人間は、本当に自分の肉体と別れてしまうものだ。本能により霊力の力が歩行させているだけの人間となってしまう。たしかにその時、それらの人は美しい夢を見ながら歩いているに違いない。そして宿営地についた時、その地が天国であるように思いながら死んでゆくのであろう。

  このような人々は数多く、口の中には側の草をむしって口元まで運んで死んでいる。ある人は一目でさえこの世の人間でないと思う肉体で歩行を続けて宿営地に辿り着き、そのまま横になり水をうまそうに飲んで眠り、そのまま知らぬ間に死んでいった。よくそこまで生き延びられたかと不思議でならない。人間本能の霊力の力なのだろう。しかし我々にはまだ肉体の力が残っているのだ。今宵も明日も生の不安に絶えず脅かされていることも忘れて朝まで眠ってしまう。

 二十年四月頃、我々は密林内を彷徨い敵の包囲網を脱しつつ次第に第四十一師団司令部の方向に後退していった。部隊は毎日居所を変えて行動を隠し、一声たりとも出さないで密林内に姿を没していたが、敵の進出は活発で、部隊の移動は困難となり、つとめて道を避けて谷間に降りたり峻嶮な山腹を登ったりして、密林を踏み分けて後退した。

 昼間上空に蔽いのないところを通過するときは敵機を用心して急いで通らなくてはならない。敵機に見つかるとすぐ急降下して銃爆撃してくる。その撃ちガラが頭の上にばらばら落ちてきて鉄帽がいるほどである。また、敵の観測機は頭上の木すれすれに低空でのろのろと飛んで見張っているのでとても覆い隠せるものではない。したがつてその観測機に無線で誘導された米軍の砲撃は実に正確であった。昼間はもちろん、夜でも月のある間は炊事ができない。煙でもあげようものなら大変である。月の入るのを待って一日分を炊くのである。たいてい午前二時頃炊いている。

 
明るくなるとまた恐怖の沈黙と後退が続く。雨に叩かれ、ぬかるみに足をとられ、密林の枝に阻まれつつ死地を脱出しようと歩き続ける。雨中の露営は背中に水の布団を敷くようであるし、傾斜地では滑らないように足先に木を置く等して眠るのであるが、まともに眠ることさえ不安な毎夜が続き後退を繰り返すのである。それでもなんとか敵にきずかれないようなところを選び、ぬかるみも谷間も軍旗を肩に負いながら、ある時は両手で抱きながら歩き続けていた。

  密林中で退避中、兵隊は直ぐシラミ取りを始めるが私は何時奇襲されてもよいように、緊張してそんな余裕は無かった。私の褌の縫目のところを見つめると、シラミの卵が数珠のように連なって、思わず「ゾーッ」としたが、しばらく飼っておくより仕方なかった。

 

私の近くで「パサッ」という何か落下した音が聞こえた。すかさず「手榴弾だぞ」と全員に注意した。いよいよ私の最期だと確信した。私は満足な快い気分が全身に漲っているのを知ることができた。それは軍旗という神聖視していたものをこの瞬間に完全に守護できるからだと考えたからである。
  

手榴弾は爆発した。「やられたな」と思う間もなく後方の山頂から狙撃されていることに気が付いた。石田兵長が「どうですか」と駆け寄ってきた。T伍長が「どうします、担ぎましょうか」と言ってくれたが、私は自決をする決心をして「軍旗は大丈夫だ、これだけ持って行け」と命じた。軍旗を渡すと私は気を落として泣いた。「もうこれで終りだ。」と思ったからである。このころ傷を手当てする一巻の包帯も、一滴の消毒水も、傷薬も、注射器も全くなかったからである。

 一度弾傷すれば忽ちガスが全身にひろがりガスエソを起こし痛み苦しみつつ死ぬのである。幾人もの戦傷者がこの状態で死んだことであろう。ガス血清の注射液さえあれば未然に防げるのに、みすみす死ななければならない。結局受傷すれば自決の途あるのみであった。

 この頃もし手術を要する盲腸炎や中耳炎などになったり、伝染病等の注射や服薬を要する病気になっても同じく死は確実視され、なんの手当ても施すこともなく死期を待って死んでしまう。従って重患者が出た場合それらの人々を運ぶことは到底不可能であり、誰一人として他人の荷物さえ運ぶことができない人々ばかりである。 

 自分自身が歩けなくなってきたら、もうそれで助けてくれる者はない。ただ一人密林に、或いは路傍に捨て子のように置いて行かれる。それらの人は食もなく、住もなく、ただ一人落ちた枯れ葉が腐っていくように死んで行く。泥沼に足をとられ、木の根にうつぶせし、あるいは水溜まりに首をつき込んで息絶えているのである。清水がわき出る川に行くとどこの部隊の英霊か二、三体、全裸で水ぶくれになって腐爛し、流水に顔を伏せているのである。最後の水を飲んで遷化したのであろう。誰知る者もなく、名も分からない処で、寂しく死んでしまうのである。

  一個の人間として、死に場所はたしかに気にかかる。人間は死ぬ時でも自分の最期を誰かに見ておいてもらいたいものだ。何時何処で、どんなふうにして死んだかを自分が知っている人々に認めてもらいたいと願う。それは名を残そうとする名誉欲ではない。ただ自分が死んだことを生きている同じ人間に知ってもらいたいだけである。従って死期を予期したときほとんどの人は、自決を図っている。部隊が移動しようとする時重患者は、殆ど自決してしまう。

 K大尉は生存の人々に挨拶し短銃を借りて自決し、H伍長は破傷風になった途端、副官に依頼して墓穴を掘ってもらい「君が代」を唄い万歳三唱し戦友の力を借りて自決し、I少尉は自ら穴を掘ってその中に入り手榴弾で自決する。またK伍長も破傷風になって七転八倒のうめきを発しているがどうすることもできない。我々も受傷すればあのようになって死ぬのだと思うだけである。

 K伍長は「俺を殺してくれ」と頼む、苦しむより早く一思いに死んだ方がよいのだと誰もが考えている。やがて近くに穴が掘られK伍長はその中に寝かされた。いろいろな戦友が別れに集まった。彼は皆に「お世話になりました」と別れを告げ、苦しいうめき声の中から君が代を歌い天皇陛下万歳を叫んだ。にぶい銃声が静かな密林にこだまして一人の命がまた消えた。

 その晩K大尉も短銃で自決した。K大尉は下痢で動けなくなってしまい部隊が明朝この部落を出発するのを知って自決したのである。残されて助かる見込みがないことを知ったとき、人間は、やはり知っている人達の見ているところで死にたいのである。

 しかし、捕虜のチャンスがあるのではなかったかと今考えないではないが、あのニューギニアの重畳たる山間部の密林地帯で、どの程度豪軍に発見され助けられたか疑問である。恐らく敵意を抱く土人達に多くは殺される運命にあったと考える。それらの事実を知っていればこそ自決してしまうのである。

 さて私は今こそ私自身、自決するときがきたと考えた。

今まで少しも考えることも思うこともなかった両親のことが走馬燈のように脳裏をかすめた。部隊は殆ど前進していて私のところには三人の兵隊しかいない、そこへ本松軍医が私の体を点検し「なんだこんなの傷じゃない」と怒鳴った。薬もなにもない軍医にとって残された治療は言葉が唯一の薬であった。私は「こんなの」という言葉に力づけられて立上がり歩行を始めることができた。その後一ケ月間痛みがあって、ガスエソの心配をしたが何もなく終わった。

  昭和二十年六月の現在弱々しくもなお生命を持ち堪えていた。現地物資に漸く慣れてきたとはいえ、マラリアの熱病は常に肉体を蝕み、時々食べられる鳥や豚の肉類、或いは椰子の実や魚類から取る栄養分の蓄積を忽ち奪い、そのあげく大事な血液を多量に食ってしまうのである。 四〇度以上の高熱は数日も上がり放しで下がらず、気の弱い者は発狂するし一回毎に体力の消耗は甚だしく、これを月二、三回と繰り返し発熱していたので、生き続けられたことはこれだけでもまさに奇跡なのである。

 特にマラリアでおこる黒水熱は尿が醤油のような黒褐色になり、ついに尿が出なくなって、アッという間に死亡する。また、患者が意識を失うと、蠅が情容赦もなく口中に産卵し、やがて蛆虫がぞろぞろと口や鼻から出てきて臨終である。蛆も時には役に立つ。蛆療法である。いつの間にか患者の傷に蛆虫が発生して、汚い分泌物を食べてくれるので傷がきれいになっていくのである。体力のある者は蛆に助けられ、生きる力のない者は蛆に殺されたのである。

 マラリアなどの熱帯病や極端な栄養失調、おまけに毎日隙きあらばと構えている弾丸は我々を狙って飛んでくるし、空からは絶えず飛行機が爆撃し殺そうとしている。 人間はどの程度まで生きられるかの実験ならまだ希望はある、もし万が一仮死したとしても手当てする人々がいるからだ。我々の生命は倒れたら最後、未知な密林に屍をさらし、埋めてくれる者もなく、銀蠅や蛆の餌食にまかせて、永遠に放り出されるのだ。

 心もすっかり疲れ切っている。判断もできないし、人間の道徳性も、愛情も、ヒューマニティも、ありとあらゆる精神要素は失われている。人間の善良性はすり減らされて只本能のみ残っているのだ。それは「餓鬼的根性」だ「動物的本能」だ「悪魔的本能」だ。

 動物にはまだまだ美しい本能がある。しかし、その頃の我々には美しさも善良さもない。それは只食う本能と、死にたくないという本能があるだけだ。食う為に、生きる為に、動物的人間はそれこそ悪魔的手段をも選ぶことがある。私は恐ろしいことだと思うことがしばしばあった。食べる物は主に土人達の物であり、彼等の家を荒廃させることは知らぬうちに犯している大罪である。

 我々は何と汚い、だらしのない人種だと思う程、立つ鳥は後を汚し、彼等の一生の財産たる食物を食ったりしている。同胞の死に対しては埋めることさえできない。 その死者の靴、雑袋を拝借し生存者は自分のものとして利用し、なお生きようとしている。鳥や蛇を取っても、一人が食べるのが精一杯で、病人に薬一つも与えられることもなく、ただ自分そのものの本能のみに於いて生きている。

  海岸地帯では食料が完全に欠乏した時、同胞間で食料争奪戦をやり友軍同志で殺し合をしたとも言われている。我々山間部に後退作戦を繰り返している人々はその度にどうにか食物を取ることができたが、もう戦う勇気などは爪の垢程もなかった。長い間の逃避戦から漸く敵中を脱し、六月には後方の宣撫工作ができている土人部落まで到着できた。

 私はある日、土人と話をした。今まで日本のことや故郷や肉親のことなど思い出したり、ゆっくり考えたりしたことはなかったが、平和な土人との生活に、思い出してしまったのである。しかしこの気持ちは最も危険なのである。気を許したら忽ち死が待っているからだ。小屋に帰ると感傷も感慨も消し飛ばしてしまう現実な悲惨な病人と生活が待っている。

 「私はまだ生き続けるのだ」と自分にいい聞かした。隣に横になっている者と何時しか、うまいものを食べたいと話し合う。故郷の家で、大きい魚を切っている魚屋が惜し気もなく大きな頭を川に捨てているのが食べたい。秋になると稲田の中にイナゴがたくさん飛んでいたし、川の中には魚や蛙がたくさんいた。

 すべて思い出されてくる。トンカツや寿司やビフテキなど高級品は今の現実にとって程遠いものだと考えている。明日は川へいって蛙や魚を探しに行こう、密林へ入って油虫や毛虫を取りに行こうと考える。

 凡そ過去の戦争の悲惨さから離れて漸く各人の胸底には人間の平和さから、郷愁などという人間の心が蘇ってきているのだ。

 戦争さえなければ幸福なのだ。人間は殺し合いさえしなければ、それだけで十分に幸福なのだ。満足な食物がなくても人間は幸福なのだ。郷愁や感傷的な気持ちを持つことさえ幸福なのだ。

 その平和な中に死ぬなら満足なのである。戦争の中で死ぬのはとても悲しい。限りなく死の哀れさを覚えるのは戦場の死である。

 夜更けて部屋が静かになってくると、遠くの部落で土人が踊っている、彼等は平和なのだ。文化の恩恵に浴していない彼等は平和なのだ。前線には他の友軍が敵と接触してくれたので我々は山中で初めて土人たちと話し合い、彼等の家を借り、彼等が分けてくれる食料を食べる生活が始まった。

  その量は僅かであったが、我々はそれで我慢しなければならなかった。」以上、大塚少尉の手記より転載。
再び、坂東川の主戦場に移る。


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