これより父の戦記をそのまま掲載する。


 我が大隊(注 第一大隊)は「ニューギニア」上陸以来殆ど師団、歩兵団の直轄或いは他部隊の配属等にて独立行動をしていた関係上、作戦全体にわたることは省略し、「アイタペ戦」の主戦場となった「坂東川渡河攻撃」前後の模様を述べることにする。

 何しろ十三年前のこととて書類は無し、記憶を辿るも日時、地点等に於いて明確を欠いている場合もあろうかと思うが何卒ご容赦願いたい。

 [注 昭和二十七年七月米極東軍指令部より「坂東川付近の夜間渡河作戦の教訓を送られたし」、の依頼でまとめた資料に加筆し、昭和三十二年頃「四一会誌」に寄稿。その一部は「戦史叢書」(中部太平洋陸軍戦史第五巻)に「山下回想」としても記載されている。]


 四、ドリヌモア(坂東)川渡河攻撃前の状況

 六月中旬(日時不明)「ソナム」附近に於いて、軍は「アイタペ作戦」を準備する。第一大隊(山下大隊)は、「ヤカムル」附近に急進し「アイタペ」附近の敵情地形を捜索せよとの師団命令を受け、六月二十六日頃「ヤカムル」に到着。直ちに将校斥候四組を「アイタペ」附近に派遣し、大体次の様な情報を入手する。

三、アイタペ東方は湿地帯で通過困難、南東方から攻撃 が可。

四、アイタペ東方道路は自動車通過盛ん。

五、アイタペ付近は食料(主として果実)が多い(斥候 の中にはまた派遣してくれと言う者あり。)
 

大隊は「ヤカムル」に到着する第二十師団に配属される。その後連日、主として湿地帯及び海岸道方面の捜索を実施する。敵は海岸道を東進中で、先頭には戦車、装甲車、その後方には自動貨車が三十車両以上も連なり、海岸道は砂塵寥々たりとの報告を受ける。七月二日頃には坂東川(注 アイタペ東方三〇キロの地点にあり下流は幅数百メートル、渡河地点のこの部分は幅二百、水深一メートルの急流)以西の海岸道に既に陣地を構築し、河口附近には上陸用舟艇が多数往来しており、七月五日には坂東川左岸に一部進出した模様。

 我が斥候は敵の射撃をうけ負傷者を出しうる状況にて、大隊長は速やかに第四中隊を坂東川右岸(川中島)附近に派遣して捜索拠点を占領した。七月七日頃より敵は逐次兵力を増加し、陣地構築に着手。警戒は厳重にて斥候の潜入も困難となった。陣地後方には各所連絡有線通信網、海岸方面には砲兵陣地の構築中を偵察。その後は専ら坂東川の渡河攻撃の準備に取りかかった。七月九日迄に知り得たる坂東川左岸の敵陣地形、図の如し。

 歩兵第二百三十七聨隊第一大隊戦闘概要図

 歩兵第二百三十七聨隊攻撃準備要図(七月十日夜)

  

 五、坂東川渡河攻撃の状況

 大隊は軍命令により「ヤカムル」に到着したら第二十師団に配属され、糧秣の補充を受けるようになっていた。ところが二十師団に連絡したところ補充すべき糧秣は無いとのことである。

すでに携行糧秣は食い尽くし、背嚢の中と将兵の腹の中は完全に空であった。

 将兵一般の心理は、既に生死は超越しており、早く敵陣に殺到し、敵の食糧を取って食べる  の一念のみで、これが本渡河攻撃成功の唯一の原因であったように思う。

七月十日午後一時半頃、聨隊(注 歩兵第二百三十七聨隊主力)が大隊の位置に到着し、師団命令の要旨と聨隊命令を下達。

それによると、十日二十一時五十分砲ならびに各種重火器の全火力を集中して敵を制圧し、二十二時を期して強第一大隊は第一線、聨隊本部第三大隊は第二線、第二大隊は第三線という意味の命令を行渡河、第一線を突破し約一キロ前進、兵力を集結してその後の前進を準備する。受領する。「聨隊長殿、敵の火力は相当なものです。劣悪な火力では敵を制圧するどころかかえって敵から制圧される。強襲は駄目です。聨隊は奇襲しましょう。」と言えば、聨隊長は軍命令だから命令通りやってくれとのことなり。

 聨隊は我が隊より遅く、只今到着したばかりなので各大隊長、中隊長に敵情地形を悉知させる必要を痛感し、「聨隊長殿、各大中隊長を連れ川岸に行って敵情を見ましょう。」と言えば聨隊長は「攻撃は貴官に一任する。聨隊主力は第一大隊の後をついて来るから」とのことなり。

 
 「林(第三大隊長)よ、敵情も川の中の状況も知らずに攻撃が成功するかよ、暗夜どこを通って前進するんだ。大隊長だけでも見に行こうや」と言えば、第二大隊長宮西大尉と顔を見合わせ「行こう」という返事をしない。 止むを得ず皆藤副官の作成した写景図に頼って敵情ならびに河岸の状況を説明する。(各級指揮官が自ら敵情地形を知らざることが後述する失敗の原因となる)大隊長は日没前、各中隊長を河岸に集め攻撃に関する細部を指示す。その要旨

一、軍は二十一時五十分全火力を以て前岸の敵を制圧し 二十二時を期して強行渡河する。

二、大隊は聨隊の第一線攻撃部隊となり、第一基点より 第二基点の間の敵を攻撃すべき命令を受けたるも該敵 を攻撃せず、第二十師団が攻撃を開始すれば川中島と 中洲の間(現地指示)の大きな流木のある低地より敵 の配備の間隙の葦の密生した突出部に向かい奇襲する。

三、機関銃中隊長は大隊砲を併せ指揮し、日没直後敵陣 地に侵入第一基点の側防火を制圧する如く準備する。 大隊が渡河を開始すれば射撃を開始し速やかに部隊に 追随せよ。第四中隊長は現在地にあって重火器を掩護 し、機関銃の後を前進しつつ聨隊主力と連絡する。

四、渡河順序は本部、1、2、3、MG(注 機関銃)、

 iA(注 歩兵砲)、4とする。

五、中隊長は敵火の状況により中洲を通過するまでは匍 匐[腹這いながら侵入する]しながら、向こう岸の流 線部が見えたら強行渡河とする。葦の中に進入せば第 一基点方向に対する黎明攻撃を準備するから、深入り せず部隊を終結し、第一中隊は前方、第二中隊は左、 第三中隊は右の方に対して警戒せよ。合い言葉は「山」 と「下」とする。その他の細部は省略す。

  ここで、「戦史叢書」より「戦闘開始直前の態勢」の関連部分の記述を転載する。

  「第四十一師団は情報参謀鈴木重雄少佐を長とする情報収集所を編成し、遠くネギル川以西アイタペ東飛行場付近の敵情地形の捜索に任じた。また、師団長はこれに続いて歩兵第二百三十七聨隊第一大隊(長 山下繁道少佐)をヤカムル付近に推進し、情報の収集に任じさせた。この大隊は、全般の関係上第二十師団長の指揮下に入り、情報の収集のみ第四十一師団長が区処することとなった。山下大隊は、六月二十六日頃ヤカムルに到着、直ちに将校斥候四組をアイタペ方面に派遣、その後、この部隊は七月初頭には、川中島中洲右岸付近に進出し、情報の収集を継続した。」

 「第四十一師団長は渡河攻撃の重要性に鑑み指揮所を戦場近くに推進して直接作戦を指揮することとし、また増成参謀を情報所長として坂東河畔に進出させ、情報収集にあたるとともに併せて歩兵第二百三十七聨隊長に対する師団命令の伝達とこれに基づく渡河攻撃の指導に任じさせた。

 増成参謀は七日午後出発し十日午前十時頃玉川[ヤカムル西方の川で日本名坂井川、連合国名ニューメン川の東支流と思われる]付近で第一大隊の位置に前進中の歩兵第二百三十七聨隊に追及し、師団命令を伝達した。次いで同参謀は聨隊長と同行し、その日の正午やや過ぎ坂井川西方五〇〇メートル付近で、第一大隊長山下少佐と会合し、ここで聨隊の攻撃計画を聴取した。その大要は次の通り。

一、方針

 聨隊は主力をもって坂東川、川中島付近左岸の敵を攻 撃した後、一挙に江東川の線に進出しネギル川方面の 敵に対する爾後の攻撃を準備する。主力方面の攻撃を たやすくするため、一部をもって海岸方面から坂東川 河口の敵を攻撃させ、これを牽制抑留させる。

二、要領

1攻撃は強襲による。

2攻撃準備位置の第一線は坂東川右岸の線、これにつく 時機は十六時以降とし、二十一時までに完了する。

3二十一時五十分重火器は一斉に攻撃を開始し、敵自動 火器を制圧する。

4二十二時渡河攻撃を開始し敵に突入する。

5敵に突入したならば第一線大隊は各一部をもって両側 に戦果を拡張し、主力の突入を掩護する。

6主力は河岸から更に約一キロ敢為[押し切る]前進し、
 

その付近にまず兵力を終結する。

7主力の終結が終了したならば、一挙に江東川の線に進 出し、同川の要点を占領して、ネギル川方面の敵情を 捜索する。

8海岸道方面の一部は極力射撃をもって当面の敵を牽制 抑留することとし、成し得れば主力に策応して逐次そ の地歩を西方に拡張する。」以上、「戦史叢書」より転載。

 このところで最も困難をきたしたことは暗夜に於ける密林内の部隊の誘導であった。日没時、重火器隊長は一部を陣地に残置して僅か一〇〇メートル後方の部隊の位置までの誘導であったが進路を誤り機関銃の二ケ分隊が二十時四十分頃陣地に到着したのみで他は不明。大隊砲は全然所在不明で「これはしまった」これでは攻撃には間に合わんと落胆。しかし二十一時半頃副官が漸く誘導して来たのでホッとした気持ちになった。

 この時、我が陣地の後方と聨隊本部との中間附近に敵は五、六発の煙弾を打込み、密林内は白煙轟々たり、「副官、瓦斯弾ではなかろうね」と言えば、副官は煙弾らしいと言う。「これはしまった、我が企図は暴露し位置は捕捉せられた。副官、主力を早く右のほうに移動せしめよ。ボヤボヤしていれば渡河前に全滅だ。」と言えば、副官はジャングルの中を部隊の方に走り、移動を始めた。

 大隊長は重火器が全部到着したので、ホッとした気持ちになったが、第一基点の敵側防火器が気になった。これは必ずや大隊の渡河を妨害する筈、これの制圧が渡河成否の鍵になると思い、昼間の標定に従い機関銃の一銃一銃の射向を側防火器に指向するごとく点検し、三銃目を見る最中に第二十師団方面は一斉に砲門を開き射撃を開始した。

 何だ、まだ後十数分ある筈なのにと思うのも束の間、左側の我が大隊砲も射撃を開始する。「コラ撃つのではない!」と大声を立てつつ大隊砲の前に走りより、軍刀を以て砲手の背嚢を叩くもこたえず。さらに機関銃もまた射撃を開始した。

 「コラ撃つのではない!」と射手の肩を叩くも何のその、我が隊が射撃を開始するや敵も一斉に射撃を開始し、万雷の一時に轟くが如くの光景であった。我が青きMGの曳光弾、敵の赤き曳光弾、青と赤との曳光弾が川中島の礫石に跳ね返り跳弾となって天に舞い上がるその光景は、東京両国の花火の如く壮観このうえもなく一時茫然としてこれを観る。

 ハッと我に返り川中島を見れば、彼我とも弾着近く、川中島を射撃している。「MG弾着低いぞ」と大声叱呼すれば、海岸方面の敵砲兵も一斉に射撃を開始した。

 殷々たる砲声、我が後方密林内にて炸裂する爆発音、大木の倒れる音、濛々たる黒煙、その光景は言語に絶し生地獄の如し。

 敵砲兵は逐次射程を縮め我が部隊の直後に炸裂する。危険この上もないので書記に対して部隊の攻撃前進を伝達する。書記が復唱も終わらない内にスルスルと敵の照明弾が連続打ち上げられ、坂東川一帯は昼を欺く明るさとなる。

 河中を見れば、大きな流木の横を副官皆藤中尉を先頭に大隊の大部は前進中である。大隊長が遅れては一生の恥だと思い書記、伝令を連れて敵弾雨飛の中、敵の照明下暴露して無我夢中で突進した。前岸に到着して右岸を見れば、第四中隊は前進方向を誤り川中島の方向へ前進するではないか、「第四中隊此処だぞ」と叫ぶも銃砲弾の為聞こえる由もなかった。敵はこれに集中砲火を浴びせて我が中隊は先頭より倒れる。大隊唯一の信頼する勇敢なる中隊長大武中尉以下殆ど全員が坂東川、川中島の小石を鮮血に染め全滅した。

 それでも、大隊の大部分は渡河を終ったようで、葦の中に集結を命じた。大隊が渡河を開始するや、河口方面の敵の射撃は逐次衰えたとはいえ、それでも敵砲兵の射撃は激烈を極め、砲弾は右岸及び河の中に炸裂する。十七夜の月は丸くジャングルの上に顔を現す、誰か言う「カモ」附近の敵は射撃を止めたと。中洲方面を見れば薄明りのもと三々五々黒影の走るのが見えるが、我が大隊の残余か聨隊主力かは不明であった。第二十師団は依然射撃を継続中であるが渡河の模様はない。

 大隊はアシの中に概ね集結したものの身の自由がきかず「副官、前のジャングルまで出ようではないか」と言いながら大隊は一団となり葦をバリバリ踏み倒してジャングルに出る。

 暗夜のことて方向を誤り「カモ」陣地の方向に前進したものと思える。時すでに黎明となりお互いの真黒な顔も見分けがつくようになったら伝令が敵の陣地だと言い、敵兵壕の中の掩葢[塹壕の上の覆い]の下を捜して敵の背嚢二つをさげて走って来る。他の兵も思い思い敵陣を掃討したようで、敵背嚢を提げてくるもの、携帯口糧の食い残りを食いつつ来る者、缶詰の空缶を持って来る者等様々であった。

 大隊は直ちに部隊を整理して四周に対する警戒を厳にする為、四〇〜五〇メートル前方の台に集結し、思い思い敵の糧抹を分け合って食い始める。平素の念願が叶い、敵の糧抹を得て、空腹を満たすには十分ではなかったが、将兵の喜びの顔は昨夜来の激戦を忘れたかのように始めてニコニコとなった。

 夜はすでに明け渡り我が後方を見れば、中村福一旗手が四、五名の護衛兵を伴い軍旗を棒してシャングルの中を前進してくる。「オイ中村中尉、軍旗は無事でよかったね、聨隊長はどうしたのだ」と尋ねると「聨隊主力附近は昨夜敵砲弾の集中射撃を被り部隊はバラバラになって聨隊長[の所在]は全然分からぬ」とのこと、「それは困った、戦死はしておられんだろうね」と言えば「戦死はしておられんと思います。」とのこと。

 「他の部隊の状況は分からんか」と問えば「相当の被害はあったけれども大部は渡河している。」とのことにて、本部指揮班を使用して聨隊の集結を始める。

 集合せるもの、聨隊の極く一部と、第一、第二大隊の概ね三分の二ぐらいであった。大隊長は二人ともおらぬ。「第二大隊長はどうした」と問えば「昨夜より分からぬ」とのこと。「第三大隊長はどうした」と問えば「聨隊長と一緒におられたけど敵の砲弾を受け何でも後の方に退かれたらしい。」という。

 部隊を集結させたが、聨隊長はおらぬ。ヨシ俺が聨隊を指揮すると言い、各中隊長に部下を掌握点検しつつ、兵は一時休息させ、我が大隊の一部を以て前面の敵情地形を偵察した。時に敵の敗残兵二名が前方に現れ、これを捕虜として取り調べた結果、豪軍第二十師団と言う。 何だ、今までは米軍と戦闘していると信じ切っていたが豪軍であったか。この野郎、友軍に大損害を与えた奴だ、殺してしまえと叫ぶ者あり。捕虜も死んだ真似をしていたが誰かが斬ろうとしたところ急に起き上がり、一目散に逃げ出した。四、五名の兵が射撃したが逃げて走る者には命中するものではなかった。

  本渡河攻撃に於いて特に印象に残っていることは次の五項である。

一、ジャングル内に於ける暗夜敵前に於いて静寂に部隊 を誘導することの困難さ。

二、軍はなぜ劣勢なる火力を以て強襲を決意実行したか疑問。当大隊は聨隊命令に違反して攻撃したけれど反って成功した。

三、聨大隊長が攻撃前河岸に進出して敵情地形を綿密に 偵察していたら、敵の砲撃ぐらいで部隊を離れて後退 することは無かったろうに惜しいことであった。

四、聨大隊共に誰も攻撃前進の命令を下したものはなか ったが、我が後方に敵の砲弾が炸裂し、敵の弾丸に依 って自然と部隊は前に押出され渡河した格好となった。

五、敵はよくもあれだけの弾丸を集めておった、故障も なくよく撃ったものだ。しかし案外弾丸は当たらなかった。  歩兵第二百三十七聨隊第一大隊戦闘要図(七月十日夜)

六、渡河後の状況

 十一日は部隊の整理、警戒、前方の捜索で河岸より約一キロ前方の台地で夜が明けた。十二日午前中であったと思う、師団より城参謀が連絡に来てくれた。

 「攻撃成功おめでとうございます。第二十師団方面は攻撃不成功に終り再興を準備中です。余り深入りせず前方、側方の敵情地形を捜索してください。」とのことにて、渡河攻撃の概要を説明し「多大の損害を出して申し訳ないが攻撃は成功した。師団長閣下に宜しく申し上げてくれ」と頼む。
 

「城参謀、実は十日夜より聨隊長と第二、第三大隊長が不明である。連絡中ではあるが未だ所在は分からぬ、困ったものだ」と言えば城参謀も「それは困った。戦死されたかな?軍旗が無事渡ったのに…」と慨嘆していた。 大隊は依然海岸方面及び江東川方向の敵情の捜索を継続する。十三日午後と記憶するが、聨隊長は第二、第三大隊長及び本部指揮班を伴い主力の位置に到着した。「戦死かと思っていたが良かった、どこにおられたのですか」と問えば「十日夜、聨隊本部附近は敵の集中砲火を浴びて部隊はバラバラとなり、第一線は後退したとのことで本部も後退したが、また前進しているとのことにて急進して来た。」とのことであった。ここで大隊の今までの戦況および敵情を報告する。

  ここで、「戦史叢書」より関連部分の記述を転載する。

 「この攻撃計画で、攻撃開始を奇襲によるか、強襲によるかは議論された問題であった。第十八軍はやむを得ない場合は強襲に移行することとして、極力奇襲の達成に努める意図であったが、第二十師団は奇襲の成功は困難と考え、当初から突入は強襲によることとしてこれを計画した。尚、前記計画では攻撃開始を二三〇〇[時間]としたが、その後これを二一五〇射撃開始、二二〇〇突入に修正した。

 この作戦について、田中軍参謀は戦後次のように回想している。「私はこの計画の起案者であったが、計画に一つの疑問を持っていた。それは中央を突破する計画である。前面の敵は三個大隊で広正面を占領し、たいしたことはない。しかし、初めから強襲中央突破という案に対して、これで良いだろうとかという疑問を感じていたのである。第二十師団長は非常に戦の上手な師団長であった。その師団長のところへ行って中央突破は良いでしょうかと言うと、戦闘としては余り良策ではないが、まあこれでやれるだろうということであった。」

 「第二十師団作戦経過要報」には、「攻撃開始ハ奇襲ヲ旨トスルモ、状況ニ依リ強襲ヲ予期ス」と記述してある。軍命令との関係からみて、当初の計画はおそらく奇襲を旨とする内容であったと考えられる。多分攻撃開始までに計画の一部が修正されたものであろう。

 一方、攻撃に関する軍命令の下達は各前線指令部に対し無線、有線で行われるが有線は被覆線の故障により実用的でなく、この頃は殆ど伝令によって命令を伝達していた。三日一五〇〇の軍命令の部隊到着状況は次の通りである。
 

 第二十師団指令部         三日午後八時

 第四十一師団指令部        七日朝

 第五十一師団指令部        不詳

 歩兵第六十六聨隊(龍井村)    四日午後

 第二輸送促進隊長(サルプ)    七日

 第三輸送促進隊長(ダンダヤ)   五日

 軍後方指令部(サルプ)      六日

 歩兵第二百三十七聨隊(大石村)  四日午後五時

 後述するように、この第四十一師団指令部に対する命令伝達の遅延がその後の攻撃に大きく影響するのである。当時第四十一師団指令部はマルジップにあり、軍が攻撃参加を予定した同師団の歩兵第二百三十七聨隊主力は大石村にあり、この間の行程は三日であった。利用すべき通信機関は皆無で、大石村から坂東川迄は更に二日行程を要した。第十八軍指令部としては、前掲のような命令伝達の遅延は予想しなかったであろうが、それにしても第四十一師団長の攻撃の指導は時間の余裕が殆どなく困難を伴うものと判断して、上記攻撃命令発行の翌日(七月四日)次の命令を下達して、歩兵第二百三十七聨隊長に取り敢えず所要の準備を実施させるよう直接処置した。

一、歩兵第二百三十七聨隊長ハ猛作戦命甲第五号ニ基ク 第四十一師団ノ攻撃部隊トシテ、取リ敢エズ所要ノ準 備ヲ実施シツツ師団長ノ後命ヲ待ツベシ。自今先遣大 隊ヲ其ノ指揮下ニ復帰セシム。(注 山下大隊は第二 十師団より第四十一師団に復帰させるということ)

二、第二十師団長ノ「パウプ」附近ノ敵攻撃ニ関スル第 四十一師団先遣部隊ニ対スル指揮ハ自今之ヲ解除ス。 下達法 筆記セルモノヲ交付。(猛作戦命甲第六号、 七月四日一二〇〇、木浦村)
 

実際にこの命令が聨隊に届いたのは、同聨隊付中村福一大尉の記述資料によれば、七日であった。

(攻撃準備位置への推進)

 第二十師団の諸部隊は、七月十日概ね隠密にその攻撃準備位置についたが、歩兵第七十八聨隊の一部が歩兵第八十聨隊の位置に誤って展開したため、午後六時頃行進交差を惹起して相当の混乱になった。第四十一師団の歩兵第二百三十七聨隊は聨隊長以下部隊主力が七月十日午後始めて戦場に到着したような状況で、先に第一線に進出していた第一大隊のほかは、未だ誰も坂東川の地形も見ていなかった。しかし其の攻撃準備につく動作は、日没に至まで極めて順調であった。ところが夜闇とともに急に行動が渋滞し聨隊の後尾は辛うじて戦闘に間に合う程度であった。

 師団参謀増成正一中佐は戦後の回想で「坂東川の攻撃は、師団においては歩兵第二百三十七聨隊山下大隊の周到な準備計画と、準備の余裕が殆ど無かったにも拘らず果敢であった同聨隊主力の行動に依って見事成功し、坂東川左岸の敵を突破して、十二日午後には坂西川右岸にまで到達した。もしこの時に師団が第二線の部隊なり予備隊を持っておったとしたら、その後の戦局は全く様相を異にしたに違いない。誠に惜しいことだったのだが、事実は師団長もその場にいなかったのである。」と述べている。(師団指令部は途中川の増水に遇ったりして前進が遅れ、なかなか到着できなかったのである。)

 また同参謀は当時の状況を「二百三十七聨隊はもっと早く河岸に進出していると思ったのに、途中で一緒になったのは意外だった。聨隊長にお聞きしてみると、焼米を作っていたというようなことであった。なぜ指揮官だけでも先に出ませんでしたかと申し上げたのであった。」と述べている。

 この第十八軍の「アイタペ戦」攻撃開始に大本営は参謀総長名で激励電を発信した。

 本十七日第十八軍ノ「アイタペ」攻撃開始並ビニ軍司令官ノ将兵ニ与ヘタル訓示ヲ上聞ニ達セリ。

 第十八軍ガ長期ニ亙リ補給ノ杜絶及敵ノ空陸海ヨリスル執拗ナル妨害ノ下、挙軍一体旺盛ナル企図心ヲ発揮シ凡有ル困難ヲ克服シテ長駆西進、以て「アイタペ」攻撃準備ヲ完整シ、今ヤ乾坤一擲ノ作戦ヲ遂行セントスルニ方リ、同軍将兵ノ勇戦敢闘ヲ祈ルト共ニ作戦目的達成ニ邁進セラレ、聖旨ニ副ヒ奉ランコトヲ期待シテ止マズ。 聨合艦隊は南方軍に次のように打電している。

 猛兵団ハ斯カル困難ナル環境裡ニ「アイタペ」攻撃ヲ決行スルヲ知リ、絶大ナル敬意ヲ表シ、全局作戦ノ為其ノ成功ヲ祈ル。右輝及猛兵団長ニ伝達ヲ乞フ。(注 猛兵団長は安達中将)

 この戦闘の相手になった連合軍側は、「米陸軍公刊戦史」で次のごとく述べている。

 「その夜二時頃、歩兵第二百三十七聨隊とこれまで戦闘に参加していなかった第二十師団の右翼隊の一部と思われる日本軍の攻撃が、G中隊の正面で開始された。この攻撃波はG中隊指揮所を超越し、広く分散した中隊の各拠点の多くを包囲した。少しの間、中隊地域で戦闘が継続したが、中隊は優勢な日本軍に長く抗し得なかった。中隊の組織が破壊され、通信連絡が分断され、その上、弾薬が欠乏し始めたので、中隊は退却を余儀なくされた。 中隊本部と第一小隊と火器小隊が北西に退却し、十一日の夜明け頃、第二大隊の指揮所に着いた。しかしこの指揮所も日本軍の砲迫の弾着を避けるため、北西五〇〇ヤードに移動することになった。重火器小隊の一部と第二、第三小隊の約二五名は北に退却した。数名はG中隊の陣地に退いた。

 E中隊の損害は戦死一〇名、負傷者約二〇名であった。

十一日の午前三時には日本軍は米軍陣地に約一、三〇〇ヤードの穴をあけていた。次の攻撃は、午前五時頃G中隊の左翼とF中隊の右翼で始まり、G中隊正面では夜明け以後まで続いた。

 この攻撃は日本軍の聨隊本部や残りの大隊、衛生機関、

砲兵部隊の渡河行動であったと思われる。」この米側記録の後半、特に午前三時頃における日本側の戦果の判定は注目すべきものである。米側も通信全般が分断され、大隊長は細部の状況が分からず、攻撃を受けている範囲も知ることができない状況であったとしている。」以上、「戦史叢書」より転載。

 第十八軍指令部の最も苦慮したことは軍需品の運搬であろう。当初、補給は海路、陸路を利用する計画を立てたが、海岸地帯は敵艦艇十隻余りが徘徊し、海路は断念せざるを得ず、また陸路は工兵隊の努力により、ウエワクより約六十キロ急造の自動車道が出来たが連日の大雨で泥沼となり、自動車の使用は不可能となった。ブーツに揚陸された軍需品は人力をもって担送せざるを得ず、このために、約七千人の兵站部隊と第四十一師団の主力、第二十師団の一部が使用された。


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