北原 健(きたはら けん)

明治25年2月28日生 昭和21年5月30日死
 
蒲生村中原上、北原源次郎、ムメの長男として生まれる。蒲生小学校から加治木中学校を経て大正元年九月東京帝国大学農科大学獣医学実科入学。同四年七月同校卒業後、陸軍一年志願兵として騎兵連隊に入営した。

 大正七年、研究生として下総御料牧場へ入場後、日置郡農業技手に、同十二年には県産業技手に、同十四年には農林技手に任命されている。

 昭和八年に県農林技師として内務部農商課に、同九年には県種畜場長として勤務した。当時昭和天皇行幸の陸軍大演習に際し、牛二頭を献上している。

 
昭和十三年六月退職、九月の県議会議員選挙に出馬し当選した。同十四年九月再選され県議会議長となる。昭和二十年六月、第十代蒲生町長に選出された。間もなく終戦を迎えその直後進駐軍がジープを連らね、町長である氏の家を訪れ、廻りの者までふるえ上ったが、氏はたい然として、その応対につとめたというのは有名なはなしである。

 巨体で知られていた氏は、当時の力士、双葉山と体重が同じであると豪語し、ゆかたは二反で作った。このため県会議事堂の椅子では間に合わず、彼用の特別あつらえがととのえられ、辞職後その椅子は蒲生の自宅に贈られ、愛用した。

 
氏は馬についての見識が高く、馬質の改良によくつとめた。氏は九州管内では求められなかった馬券を、九州を一歩出ると入手し、それは必ず当たって上京時のホテル代は出たという。上京の折、海音寺潮五郎氏とよく食事に行った東京渋谷のレストラン 「双葉」 の主人が大の馬ファンで、各部屋に飾ってあった馬の置物の、すべての号名と血統、競馬歴などを氏は鑑定したという。

 
又、当時の県体育協会長、遠藤力雄氏とペアを組み、県のテニス大会で優勝したこともある。又大口市の霧島焼は、現在健在の宮下さんに始めさせたのだという。

 昭和二十一年四月、公職追放を受けて町長を辞職し、翌月、脳溢血のため五十五才で急死した。


終戦秘話

 当時健氏は蒲生町義勇隊々長、福島蓮城氏は先鋒隊長であった。

終戦直後の昭和二十年八月十七日のことである。十八部隊の大園大尉と吉田村の古木氏が町長室を訪れ、氏と蓮城氏を相手に約二時間談判する。その内容は「十人部隊を武装したまま解除して、地方の義勇隊と合流しゲリラ戦に移る」。同意せょとピストルを突きつけての脅迫であった。

 二人は暫らく時間をくれと別室で活し合い、「帖佐が賛成するなら蒲生も同意する」 と答を出した。帖佐も蒲生が賛成するならとお互い弱腰で結論は出なかった。二人とも死を覚悟して対応したという。宮崎は平和、鹿児島はゲリラ戦といわれたひとときであった。

以上は福島蓮城氏の談による。

                                                 文責 山元豊子