サムライ会社

「蒲生の里にはサムライ会社というのがあるそうですな」

と、編集部のHさんが突如いった。私もそういう話をきいていた。信じられないような話だが、明治の瓦解で士農工商が消滅したとき、蒲生の旧士族があつまって不動産会社をつくり、それがいまもってつづいているという。
薩摩藩時代、蒲生には大きな郷士団がおかれた。


その士族たちが明治になってから旧藩に誓願し、旧藩有林と牧場の払い下げを受け「蒲生士族共有社」という会社を作ったのです。

今も、林業を営み育英会を運営し、若者たちに奨学資金を与え続けています。

錦江湾を霧島方面に走る 途中、重富から蒲生に入る
蒲生町を城山から望む(平成10年元旦)
元「蒲生士族共有社」 蒲生殖産興業株式会社

「蒲生衆のために藩有林や藩有の牧場を払いさげて下さい」。
と旧藩に請願し、意外にも許可された。まったく意外というほかない処置で、こういう事例は薩摩藩の他の地域にもなく、むろん全国的にも士族の特権が経済的に保護された例など皆無であった。

なぜうまく行ったかについてはいくつか理由が考えられる。
蒲生衆が政治的な立ちまわりがうまかったということではなかった。むしろ逆だった

武家屋敷のたたずむ中原通り
武家屋敷の石垣が続く
この衆は藩内でも醇朴(じゅんぼく)で知られ、たとえば有名な関ケ原の退却戦でも最後まで踏みとどまるなど、どの戦場でも損な役まわりをひきうけてきた。
中原通りから城山(竜ケ城跡)を望む
蒲生衆のいうことならきいてやれ
という同情が、藩の瓦解のとき藩幹部にはあったにちがいない。
蒲生衆は、藩財産を頂戴するにあたってその受入れ組織をつくって陳情したことも利口だった。「蒲生士族共有社」という名前の組織をつくったのである。しかも目的を明快にしたことも利口だった。「子弟の東京遊学の学資にあてる」というのである。
武家屋敷 八幡通り
かれらは「共有社」の土地に植林をし、牧畜をした。その果実は社員に平等に配分された。
その金のおかげで蒲生旧士族の子弟は鹿児島市の旧制中学に行ったり、東京の大学へゆくことができ、このためこの貧窮な町が、明治初年から上級教育への就学率が高かった。

武家屋敷 西馬場通り

日本戦史そのものがこの郷に集約されている観があった。

八幡宮の岡につづく台上へのぼった。台上には、この蒲生郷のサムライたちが経てきた各戦役の記念碑が林立していた。

日清日露や大東亜戦争の記念碑なら各地にあるが、この郷では戌辰戦争のもあり、それ以前の薩英戦争の碑もあれば、さらに最大のものとして関ケ原の役の記念碑までずっしりすわっており、日本戦史そのものがこの郷に集約されている観があった。
蒲生八幡神社境内
関ヶ原合戦の戦没記念碑
左から関ヶ原、薩英戦争、日清、日露、戊辰の役の記念碑

明治6年新政府と決別し鹿児島に戻った西郷は、薩摩の武士気質を保とうと、「郷中」を「私学校」という形で復活します。私学校が反政府暴動を起こすと西郷もこれを押さえきれず、私学校の生徒たちと行動を共にしたのです。
明治10年9月、西郷軍は鹿児島で政府軍の総攻撃を受け壊滅します。
西郷南洲翁設立私学校跡
(鹿児島市)
明治10年西南の役
私学校城壁に残る弾痕記念碑
(鹿児島市)

関ヶ原以来培われ、維新の原動力となった薩摩の武士気質はこの時、その大半が失われたと司馬さんは考えています。西郷は自刃し、その時をもって薩摩国は戦国以来の独立勢力としての恐るべき歴史を失うに至るのであるが、失ったものは、あるいは、それだけではないのかも知れない。
西郷を中心に、桐野、別府などが眠る
南洲神社(鹿児島市)

当時日本中に充満していた反政府気分や野党勢力はことごとく、西郷とその麾下(きか)1万数千の薩摩人の決起と成功に熱狂的な期待を寄せた。

西郷とその麾下の意外な敗北によって一挙によりどころを失い、その敗北は日本国に史上類がない程に強力な官権政府を成立させるもとになった。

あるいは、西郷の敗北は単に田原坂に止まらず今日に至るまで日本の政治に健康で強力な批判勢力を成立せしめない原因をなしているのではないかとさえ思えるのだが。

庄内藩など他藩の西南の役戦没者も眠る南洲墓地(鹿児島市)

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鹿児島県姶良郡蒲生町  山下憲男