「蒲生の里にはサムライ会社というのがあるそうですな」
と、編集部のHさんが突如いった。私もそういう話をきいていた。信じられないような話だが、明治の瓦解で士農工商が消滅したとき、蒲生の旧士族があつまって不動産会社をつくり、それがいまもつづいているという。終戦直後、沖縄戦を戦った米軍部隊が鹿児島市に進駐してきたとき、おそるべき巷説が流れた。
――蒲生のサムライ会社が決起する。

という。むろん武器は刀か槍、もしくは火縄銃、あるいはせいぜい戌辰戦争当時の元込銃(もとごめじゅう)であろう。

蒲生郷には竜ケ城(りゅうがじょう)という、籠城には屈強の急傾斜の丘陵がある。かつて島津氏が豊臣軍に追いつめられたときも最後には蒲生の竜ケ城山に籠(こも)るという案があったそうだし、明治十年の西南ノ役のときも西郷軍は最終防御線を蒲生の竜ケ城山におくつもりだったといわれている。


「周囲二里三町余、四方は削(そ)ぎ立つごとき断崖にて、一夫(いっぷ)これに依(よ)れば十万の兵も攻めがたし」といわれた天瞼で、米軍もよほどおどろいたらしい。かれらがこの巷説を本気で信じた証拠に夜襲部隊を編成し、夜のうちに行動して蒲生郷を三方から包囲したことでも察しられる。
竜ケ城の本丸方向 中原通りから城山(竜ケ城)を望む

米軍は要所要所に機関銃や迫撃砲を据え、夜あけとともに決死隊(?)がジープに乗って町長宅へ踏みこみ、寝ぼけている町長をたたきおこして鹿児島市へ連行した。

「そういう事実はあるか」
と、米軍指揮官が訊問すると、町長は一笑し、「いかに蒲生士族が関ケ原以来勇悍できこえているといっても、アメリカ合衆国を相手に戦争しょうとはおもわない」と答えたといわれているが、真偽のほどはいまとなれば多分に伝説的である。当時の町長は北原健というひとで、『蒲生郷土誌』にも、

―― 敗戦の色濃き苦難に遭遇し、かつ終戦処理のため、昼夜兼行、東奔西走、もっぱら民心の安定に尽瘁(じんすい)した。
と、その業績が書かれている。この「昼夜兼行・東奔西走」のなかにこの事件も入っていたにちがいない。

米軍指揮官は、
「日本は明治のときにサムライ制度を廃止したといわれているが、本当か」

と、いった。町長はそのとおりだ、と答えた。

「にもかかわらず薩摩の蒲生郷だけはそれを温存したといわれているが、本当か」
といわれて、町長は窮した。じつは蒲生郷だけは士族はその権威を保存し、依然として武家屋敷に住み、結社をつくっていたのである。

武家屋敷のたたずむ(中原通り)
島津氏の軍制は鎌倉風で、戦国期においても城下集中主義をとらず、その領土の各地に郷士団を居住させていた。蒲生の地は現在もそうであるように碁盤の目に町づくりされ、そこに居住して攻防に任ずる郷土の数はざっと九十軒ほどであった。が、この土地は元来が痩地なのである。

山林がぜんたいの七〇パーセントを占め、畑が三百町歩、水田はわずか百十町九反半にすぎなかったため、蒲生士族は紙すきなどをして自活せぎるをえず、薩摩藩の郷士団のなかではやや貧窮な部類に属していた。貧窮だったからこそ明治の廃藩置県という士族瓦解のとき、うまく生きのびる智恵が湧いたのかもしれない。
―― 蒲生衆のために藩有林や藩有の牧場を払いさげて下さい。

と旧藩に請願し、意外にも許可された。まったく意外というほかない処置で、こういう事例は薩摩藩の他の地域にもなく、むろん全国的にも士族の特権が経済的に保護された例など皆無であった。なぜうまく行ったかについてはいくつか理由が考えられる。蒲生衆が政治的な立ちまわりがうまかったということではなかった。むしろ逆だった。この衆は藩内でも醇朴(じゅんぼく)で知られ、たとえば有名な関ケ原の退却戦でも最後まで踏みとどまるなど、どの戦場でも損な役まわりをひきうけてきた。

―― 蒲生衆のいうことならきいてやれ。
という同情が、藩の瓦解のとき藩幹部にはあったにちがいない。貧乏であることも同情されていた。さらには蒲生衆は、藩財産を頂戴するにあたってその受入れ組織をつくって陳情したことも利口だった。

「蒲生士族共有社」
という名前の組織をつくったのである。しかも目的を明快にしたことも利口だった。「子弟の東京遊学の学資にあてる」というのである。

武家屋敷(八幡通り)

かれらは「共有社」の土地に植林をし、牧畜をした。その果実は社員に平等に配分された。その金のおかげで蒲生旧士族の子弟は鹿児島市の旧制中学に行ったり、東京の大学へゆくことができ、このためこの貧窮な町が、明治初年から上級教育への就学率が高かった。

「明治六年、長谷場弥七に金三百円をあたえて東京へ留学せしめたのが、蒲生出身の最初の書生である」

と、町役場の正史である『蒲生郷土誌』に書かれている。当時の三百円というのは大金で、相当な邸宅が買える金であった。もっとも長谷場弥七は学問に不熱心だったのか、「不幸、不成功にて十一年帰郷した」とあまりかんばしくない記述が正史に書かれている。しかしともかくも書生を出したということが蒲生郷にとって一大事件であり、長谷場弥七なる人物はそのために永遠に村史に名をとどめることになった。

武家屋敷(西馬場通り)

――なにや知らんが、変にユーモラスな村ですよ。

と、作家海音寺潮五郎氏がしばしば蒲生について語られるが、この名誉の書生第一号の記述にもその気分が漂っている。「不幸、不成功にて」という具体的な内容については、よくわからない。しかし一郷のひとびとはいまでも語りつたえているのにちがいない。

元来が、あまり人を押しわけて立身出世しょうというような気分の稀薄な土地で、「共有社」の財力(?)があったわりには天下知名の士は出ていない。

「数学の名人がおりましてなぁ」

と、私どもが蒲生町に入ったとき、案内してくださった土地の有力者が、この郷土が輩出した最大の人物について語った。瀬之口覚四郎という人物で、かれも共有社の資金のおかげで東京に出ることができた。『蒲生郷土誌』には「頭脳晰」ととくに書かれている。瀬之口は海軍兵学校に入り、海軍部内では砲術の大家とされていたが、大尉で終ってしまった。軍艦の砲術長をつとめていたときに戦死したからだが、ただし時代はよほど古い。日清戦争のときである。

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