中曽根康弘 私の履歴書  日本経済新聞


防衛庁長官

 昭和四十五年十一月二十五日午前十一時過ぎ、私は臨時国会の開会式に防衛庁長官として出席した後、砂防会館にある事務所でモーニングを着替えていた。そこへ陸上幕僚監部から緊急の電話が入った。作家の三島由紀夫が「盾の会」の四人を連れて市ケ谷の東部方面総監室を占拠しているという連絡である。

 とっさに私は三島らは確信犯であるに違いないと判断した。ノーベル賞候補の高名な芸術家で、自衛隊がこれを殺傷すると社会的な影響が大きい。従って自衛隊は最後、警察官をまず前線に出し、穏便に収めることを考え、この点を強く指示した。

 直ちに防衛庁に向かうと、午後零時十三分、監禁されていた益田兼利総監から「三島と学生の一人が自害し、他は逮捕しました」と直接、電話で報告が来た。私は幹部を集めて「常軌を逸した行動であり、民主的秩序を破壊する行為は徹底的に糾弾しなけれはならない」との談話を発表、各幕僚長を通じて自衛隊員の心構えを下達した。私が三顧の礼で迎えた猪木正道防衛大学校長にも、三島の檄(げき)に反論する所信表明をしてもらった。

 矢継ぎ早の対応は昭和十一年の二・二六事件の際、川島義之陸相が当初、あいまいな態度をとったため、陸軍内に動揺をきたし、事件の僻地を遅らせる結果になったことを思い起こしたからである。

 その夜、自宅に帰ると電話がジャンジャン鳴り、「お前は三島の友人ではなかったか」と抗議の山である。実は彼とはそう深いつきあいはなかった。私は、これは美学上の事件でも芸術的な殉教でもなく、時代への憤死であり、思想上の諌死(かんし)だったのだろうと思った。が、菜掲譜にあるように「操守は厳明なるべく、しかも激烈なるべからず」であり、個人的な感慨にふけっている怯ではなかった。


 私は友人の四元義隆氏を通じて、佐藤百相に入閣するなら防衛庁長官と希望を伝えていた。なぜか、と箔会が戻ってきた。私は「日米間係基軸は安全保障にある。日米関係をつなぐギリギリの線はどの辺にあるのか、日米関係の表に現れない底の底を知っておきたいからだ」と返事をした。

 佐藤氏もこれ愛称(りょう)としてくれた。つまり私は志願兵の防衛庁長官だった。実際になってまずやらなけれはならないと思ったのは、第一線の士気の高揚である。

 そのために、幹部の猛反対を押し切ってジェット戦闘機に乗って部隊を視察しようと考えた。ただし乗るについては立川の航空実験隊へ行って、帝薄な気圧や酸素に耐え得るかなどの適性を調べ、合格しなけれはならない。一万bの上空でバラシユートで脱出することもありうるからである。

 最大の雑関は低圧軍隊長は大いに心配し、実験婆の申に航空生理専門の医留を同行させた。やがて予想外のことが起きた。この医留がにわかに具合が琴くなり「長官すみません」と言って箋外に脱落してしまったのである。

 一気に北海道に飛んだ。雪に埋もれた隊舎に泊まり、隊員と風呂で背中を流し台い、せんべいをかじりながら療談し、上段は三曹に譲って二段ベッドの下段に寝た。このころ、自衛隊員から募集した川柳の長官賞は、たまに撃つ弾がないのが玉にきず世にはスタンドプレーと言われまた上官は緊張して迷惑だったかも知れない。しかし隊員と一緒に寝泊まりしたからこそ、トイレットペーパーが自弁であることなども分かった。支給に変えたのは言うまでもない。翌年の川柳はこうである。

 有り難くおし戴いて尻をふき(元首相、衆院議員)